今日は人生初めての日だったなんて

好奇心がある限り心を文字で表すことは大切です。日記を書きます。

外国人はうるさいというバイアスをかけてしまう

 

吹奏楽コンクールを聴くために、

京王線に乗って府中市にあるコンサートホールに行って来た。

新宿から京王線に乗るのは滅多にないので、

工事中で分かりにくなった巨大駅はすます分かりづらく、

人波に押されるようにやっとのことでホームに着いた。

 

その電車の車内でのこと、

席は当然満席で、私は列の中ほどで吊革につかまって立っていた。

目の前には中国語を話す3人連れの男性が座っている。

別に強面の雰囲気もなく普通の感じだ。

 

しかし、声が大きすぎる。

途切れなく続くその話声は静かな車内に響き、

言葉が分からないだけにうるさくてしようがなかった。

他の客たちはジーッと何もしゃべらずスマフォを見ている。

 

とても気に障ってイライラしていたら、

左端の男性がいきなり更に大きな声でしゃべり始めた。

誰かと会話しているらしく宙を見て笑ったりしている。

 

よく見ると耳にはイヤフォンをしているので、

誰かから電話がかかってきたようだ。

当人はマイク付きのイヤフォンの声に、

大声で答えているのが普通なのだろうが、

満員電車の中でよくもまあこんな行為ができたものだと私は呆れた。

 

よほど注意しようかと思った。

でも、やたらそんなことをすると何をされるか分からない。

おそらくその行為を不愉快に思っている人も、

それが恐くて我慢しているに違いない。

 

駅に着き発車するたびに車内アナウンスが、

「携帯電話はマナーモードにしてください」と言う。

そんなこと関係なくあの人たちは3人だけで社会が成り立ち、

人がどう思うなど考えることがないのだ。

 

良識ある外国人がこうした人のために生きづらくなっているのは悲しい。

また私たち日本人がこんな彼らを全体で捉え、

バイアスをかけて見てしまいがちになるのも悲しい。

 

川で避暑して魚を捕って

 

コッコちゃん達を預けている山の家の近くには、
山はもちろんあるけれど、小さな川も流れている。

その川面には忙し気に小魚が群れを成して魚影を覗かせている。
メダカのような色をしたハヤという魚のようだ。


都心から押し寄せてくる観光客は、
有料の今風のしゃれたキャンプ地に集まるが、
知る人ぞ知る山の家の住民は、
その小さな川を格好の避暑地にしている。
つまり、昔ながらの川遊びで、

いうなればそこはプライベートリバーサイドである。


ここに来た時は私は川辺の小石の上に簡易椅子を置いて、
足を水に浸けながら持ってきた新聞や本を読むことにしている。
市街地の気温は30度を過ぎているのに、
この川辺はまるでクーラーが効いているように涼しい。

 

更に灌木に囲まれているのになぜか藪蚊が一匹もおらず、
蚊取り線香が要らないのも嬉しい。
そして、何より楽しいのは山の家の主が魚を捕まえることだ。

川に入ったと思うと、またたくまに魚を捕らえる。

私も試したことがあるけれど、捕ったことは一度もない。


捕まえられた魚がプラ容器の中で泳ぐ様子を見ると心が踊る。
もともと魚屋で色んな魚が並んでいるのを眺めるのが好きだった。

色や姿が奇麗だからだ。
生きて涼し気に泳いでいるのを見るのはなおさらである。

 


捕まえられた5匹の内、小さな2匹は戻された。
大きい3匹は衣を付けられて、今夜のおかずになると思う。

雑魚だけど揚げたては美味しいに違いない。


文字通り地産地消の自然の恵みである。

 

 

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草を使ってお鍋を洗う

 

カレーライスなどのドロドロとした料理は、
食べ終わった後のお皿はウエスで簡単に拭けば良いけれど、
大鍋の始末は厄介だ。
そのままにしておくとルーが鍋中にこびりついて、
洗ってきれいにするのが嫌になる。


他にも油の多く出る肉料理などの後始末もつい億劫になる。
特に忙しい時はキッチンのシンクを汚したくなくて、
引き出し窓から鍋を外に出し、水を入れておく。


そして、時間ができたら庭仕事の合間に、
こびりついた食品カスを、
その辺の雑草や枯れた葉っぱでこすり取っている。
まあ自然が洗剤ってことだ。 


枯葉や生葉をたくさん掴むから、
ビニル手袋なしでも汚れが手に付かない。
このやり方だと面白いように汚れが落ちる。
その作業を3回もやると、鍋は磨いたようにピカピカになる。
汚れた葉っぱは再び土に戻って肥料となるから一石二鳥だ。


これはキャンプで覚えた方法だった。
外での炊事では洗剤が使えないので、
そばにある雑草や砂でしつこい汚れを落としていた。
自宅でも庭さえあればできるのだからやらなくてはと思う。


シンクでカレー鍋の始末をするには洗剤を多く使う。
その分、すすぎの水もたくさん使う。
だから、自然の物しか使わないこの方法は、
地球環境に貢献できるし水道料金の節約にもなり、
これまた一石二鳥だ。

 


最も昔の人はこういう方法で暮らすしかなかった。
草や灰で洗うのは人間の知恵だ。
何しろ自然の恵みは無尽蔵なのだから。


人は便利さを追求し自然を離れ、
いよいよ気候をも変えてしまった。
自らの首を絞めているとしか考えられない。

何とか少しでも昔に戻ることはできないものか。

 

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日本伝統の桝を使ってみる

 

いつも使っているお米を計るプラスティックのカップを、
思い立って木製の桝に替えた。
昔はアルミやプラスティックなどなかったので、
分厚い木製の桝は何台も経て渋さが増し、
代々使い込まれて来た風格が滲む。


確か私の記憶では、豊臣秀吉が全国的に同じものに統一したのだった。

紀元前の秦の始皇帝は中央集権強化のためには度量衡を統一し、

日本では秀吉の時代に改革が行われたのである。

 


今と違って税金は農民から取りたてたお米で、

その単位は10合は1升で、10升を1斗と言った。
荘園土地を持つ領主は都合でばらばらにして器を作り計っていたので、
中央集権を確立させたい秀吉が手を付けたのだった。

驚くことにこの桝は、

他国からの伝来モノではなく我が国独自のものである。


台所には大きな1升桝などないけれど、
私が子供の頃はお米屋さんでよく見かけていた。
側面の屋号の焼き印に店の誇りみたいなものを子供ながらに感じたものだ。

 

使い続けられた存在感、まさにそれである。
今でも厄落としのための節分の豆まきは、
この1升桝から人々にあまねく降り注げられる。


そんなことをわざわざ思い出させてくれるのは、
やはり、器が自然素材でできたものだからなのだろう。

釘も使わず組み込み細工でできている。

 

こうした自然のものはいつか大地に戻っていく。
今まで何年も使っていたプラスティックの計量カップは、

経年劣化の汚れがひどく目立ちこんな思いは湧いてこない。


だから、この日の夜はお土産に頂いた岐阜のお酒を桝に注いでみた。
しゃれた飲み屋ではこの桝の中にグラスを入れて、
桝の底にこぼれ落ちるほど注いでくれる。
最後に残ったお酒を一滴残らずグラスに戻す。


そんなシーンが脳裏に浮かぶが、
直接四角い桝からお酒を飲むには角から飲んでも、

面から飲んでも口元からこぼれてしまい、
結局はグラスに移して飲むことになった。

 

それでも、桝になみなみと注ぐひと手間は、
普段のそれよりも遥かに楽しいものとなった。

 

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線香花火の思い出

 

私は小さな頃から花火が大好きだった。
夏の夕べは親せきの人が買ってきてくれたお土産の花火や、
なけなしの小遣いをはたいて買った花火を庭先で楽しんだ。


今でも遠い町の花火の音を聞くと、いても立ってもいられず、
ベランダに駆け上がったり、外に飛び出したりして遠い空の花火を探す。


先日はとある町の有名な花火大会に電車で出かけ、
2万発もの打ち上げ花火に酔いしれて来た。

花火は私だけではなく多くの人の心を掴むのか、

帰りの駅には改札に辿り着くまで夥しい人の群れだった。


私が小さな頃は、家の近くには子供相手の菓子屋があって、
夏になると店先にはカラフルな花火が何種類も並んでいた。
真昼にやる地面をくるくる這って爆発するねずみ花火や、
男の子たちが好む爆竹のようなものもあるけれど、
流れ星のような光がパチパチと音を立てて飛び出し、

最後まで手で持っていられる美しい花火もあった。

 

中でもいちばん安価な線香花火は、なぜか最後にやるものだった。
店には細い芯に黒い火薬の塗られたものと、
赤や緑の色の着いた薄紙のよりよりに火薬が包まれたものがあった。


細い芯が麦藁の繊維だったのか分からないけれど、

私は細い芯の方が好きだった。

一束が何本なのかは忘れたが、それを買って家に持ち帰った。
夕食が済むと姉妹で玄関先の石畳にしゃがみ、
一つ一つ蠟燭の炎で火をつけては楽しんだものだ。


この線香花火はとても不思議な火花を散らす。
まず最初に五葉松やパセリのような形の火花が、
勢いよくパチパチと音を立てて飛び出す。


それをしばらく見つめ続けると、
だんだんとゆっくりとなって、柳のような形に変わっていく。
その火花がますます小さくなって、いよいよ命尽きる頃になると、
最後に火花を散らしていた火薬が丸い真っ赤な玉になる。
まるで溶鉱炉で燃えるガラス玉のようだった。


私も姉もその最後の断末魔の火花が、

地面にジュっと音立てて落ちるまで、
息を呑んで食い入るように見つめたものだった。

 

子供ながらに私は思ったものだ。

人の一生も線香花火のようなものではないだろうか。

きっと最後にこのような火の玉になって落ちていくのかもしれない。

その時、どんな思いが頭に過るのかと。


線香花火がなくなってしまうと長い夏の夜が始まり、

私たちは汗まみれの体のまま、蚊帳に飛び込んだものだった。

 

あれから自分のために線香花火を買ったことがあったろうか。
夜空に華々しく大輪を咲かせる打ち上げ花火を見上げながら、
そんなことを思った。

(下のイラストは改札に続く花見客の長い列)

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野良猫に威嚇されて

 

朝のウォーキングは自宅を起点に細長い四角形に歩く。
距離は分からないが、時間にして1時間ほどかかる。
真夏は草刈りに時間を取られてできないが、
それ以外の時期はなるべく起きたらすぐに歩くようにしている。
 
ここは広い関東平野の平地なので運動のために信号は渡らず、
わざわざたった一つの歩道橋を二段越しに上がる。
これがきつくなったらもう山も歩けないぐらいの覚悟で脛を勢いづける。
 
その散歩の道すがらにまだわが家の近くだが、
必ず2、3匹の野良猫を見かける。
毛色が似たようだから近親交配に違いない。
 
いつも同じ場所の道路を行ったり来たりしているので、
その辺りの民家の裏庭に棲んでいるのだろう。
それとも猫好きの住人が餌をやったりして大目に見ているのか。
 
3匹のうちの1匹は、とても幼い顔をしていてあどけなく、
体も3分の1ほどで生後半年ぐらいに見えた。
顔がとても可愛いのでわが家で飼ってあげようかなどと気になり、
出会うと近づいて掌を差し出し声をかけていた。
でも、そこは野良の習性で一目散に逃げていくので思うようにはならない。
 
先日、その猫が小さな子猫を3匹連れて、
道の真ん中でじゃれ合っていた。
えっ、あの子は大人?それも母親?私はたいそう驚いた。
 
昨日は歩いて来た私に気づくと、
母猫はすぐさま子供たちに逃げるように促し、
3匹の子猫は猛烈な勢いで生け垣の中に消えた。
 
当の自分は近づく私に向かって生け垣の入り口で牙をむいていた。
「ここから先は何としても私が守る」という強い母親の行動だった。
私が「敵じゃないよ」と声をかけながら更に近づいても、
母猫は「シャッー!」と唸って臨戦態勢をとった。
 
猫のこの「シャッー!」と威嚇する声を聴いたのは久しぶりだ。
昔、捨てられた子猫を飼っていた頃、
彼が庭にやって来たよその猫に向かって発していた。
体は一つも動かさずこの声で威嚇していたっけ。
 
この日の猫はきっと自分の何倍もの大きさの人間の私に対しての威嚇だ。
野良にとってよその猫たちや動物もそうだが、人間も敵なのだろう。
特に子供を守る場合は更に敵意が強くなる。
 
ふかふかのお布団に汚れた足でのっても、
優しく可愛がられる家猫と比べたら、
この母猫の惨めさは可哀想すぎる。
 
生け垣の中の住人は子猫の存在を知っているのだろうか。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

菜食の友人がやってきて

 

ビーガン(完全菜食主義者)ではないけれど、
菜食の友人が遠くから来てくれるので、夕食の献立に頭を捻った。
肉やお魚なしでちょっとしたご馳走となると見当がつかない。


そこで思いついたのが夏野菜の天ぷらだ。
天ぷらなら私も大いに満足できるし、お酒のつまみにもなる。
庭の菜園にはピーマンやインゲンがある。
ナスは採ってしまっていたので、お店で買えばよい。


スーパーに行ったら魚売り場に美味しそうなエビがあって、
どうしても買いたくなった。
野菜だけの天ぷらなんて、何となく惨めすぎるではないか。
エビを添えたら豪華?に見えそうだ。


約束の時間に駅に車を走らせようとしたら、玄関チャイムが鳴った。
健脚の彼女は暑い中、駅から歩いてやってきた。
どうやらわが家近くのピザ屋にも寄ったようで、
大きな箱を抱えてやってきた。


天ぷらは働き者の彼女が揚げてくれた。
私は庭の青トマトと玉ねぎのサラダと、
キュウリの漬物らしきものを並べる。


グラスを用意し、
彼女が買ってきてくれたマルゲリータをどんと真ん中に置く。
テーブルの光景はちぐはぐな組み合わせだけれど、
美味しければよいし、胃の中に入れば同じだ。


嬉しいことに菜食の彼女がエビを一つ食べてくれた。
マルゲリータはトマトソースの上にモッツァレラとバジルがのっている。
確かに濃厚なチーズさえあればお腹は満足する。

 

翌朝の料理はズッキーニにモッツァレラチーズをのせ、

ニンニクやインゲンも添えてガスオーブンでじっくり焼いた。

これにパンをと思ったけれど、なぜかお蕎麦を茹でた。

昨日に引き続き妙な組み合わせになったけれど、

これもちゃんと完食した。

 


彼女は私の仲間内ではいちばん体力がある。
どんな重い荷を背負ってもへこたれない。
菜食なのに実に不思議だったけれど、
テレビなどで見ると、世界にはそういう食生活の地域もたくさんあって、
立派な筋肉を持っている。


きっと彼女もそんな人たちの類に違いない。

 

 

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