


ビーガン(完全菜食主義者)ではないけれど、
菜食の友人が遠くから来てくれるので、夕食の献立に頭を捻った。
肉やお魚なしでちょっとしたご馳走となると見当がつかない。
そこで思いついたのが夏野菜の天ぷらだ。
天ぷらなら私も大いに満足できるし、お酒のつまみにもなる。
庭の菜園にはピーマンやインゲンがある。
ナスは採ってしまっていたので、お店で買えばよい。
スーパーに行ったら魚売り場に美味しそうなエビがあって、
どうしても買いたくなった。
野菜だけの天ぷらなんて、何となく惨めすぎるではないか。
エビを添えたら豪華?に見えそうだ。
約束の時間に駅に車を走らせようとしたら、玄関チャイムが鳴った。
健脚の彼女は暑い中、駅から歩いてやってきた。
どうやらわが家近くのピザ屋にも寄ったようで、
大きな箱を抱えてやってきた。
天ぷらは働き者の彼女が揚げてくれた。
私は庭の青トマトと玉ねぎのサラダと、
キュウリの漬物らしきものを並べる。
グラスを用意し、
彼女が買ってきてくれたマルゲリータをどんと真ん中に置く。
テーブルの光景はちぐはぐな組み合わせだけれど、
美味しければよいし、胃の中に入れば同じだ。
嬉しいことに菜食の彼女がエビを一つ食べてくれた。
マルゲリータはトマトソースの上にモッツァレラとバジルがのっている。
確かに濃厚なチーズさえあればお腹は満足する。
翌朝の料理はズッキーニにモッツァレラチーズをのせ、
ニンニクやインゲンも添えてガスオーブンでじっくり焼いた。
これにパンをと思ったけれど、なぜかお蕎麦を茹でた。
昨日に引き続き妙な組み合わせになったけれど、
これもちゃんと完食した。

彼女は私の仲間内ではいちばん体力がある。
どんな重い荷を背負ってもへこたれない。
菜食なのに実に不思議だったけれど、
テレビなどで見ると、世界にはそういう食生活の地域もたくさんあって、
立派な筋肉を持っている。
きっと彼女もそんな人たちの類に違いない。

先日の東京では赤坂でランチにすることにした。
以前の赤坂は裏通りにも表に居酒屋さんや食事処がたくさんあった。
今はしゃれた高層ビルに囲まれて、そんな店は減ったかと思ったら大違い。
以前と同じように下町風情の居酒屋が軒を並べていた。
そんな中で少しおしゃれな店はないかと探し回っていたら、
偶然路地のようなところに黒板にメニューが書かれた店を見つけた。
その文字が可愛らしくて気に入った。
狭い階段を上がると、今流行りの行列もできていて、
きっと評判の店なのかと思ったらそうではなくて、
看板の店は分かりにくいその裏手にひっそりとあった。
店内はバーらしくカウンターの後ろにはいろんなお酒の瓶が並べてある。
暗い穴倉みたいだけれど、全体にセンスの良い落ち着きが醸し出されていた。
私たちはたった二つしかないテーブル席に座り、
外で見たランチメニューを注文した。
この店は夜はバーをやっていて、
昼間はイタリアンのランチをやってるようだ。
そんなわけだから料理に期待はしなかったけれど、
注文したひと皿を見ると、見た目も今風で、味もとても良かった。
通りに面しているわけではなく、建物に入っても迷路のようで、
まさに知る人ぞ知るという感じの店だ。
でも、私たちが入ってから何人かの客が次々と来た。
若い女性がカウンターに座っている。

時々、ギャルソンと話をしているので常連さんなのか。
田舎者の私たちはなぜかしら聞き耳をそばだてながら、
ランチメニューのニョッキを味わった。
これがなかなか美味しいのだ。
また行きたいと思うが、そんな機会はあるだろうか。

日本の都市にはどこにもコンサートホールがある。
こんな地方の小さな町にどうして?と思うほど、
立派過ぎるホールだ。
その殆どが催し物の何にでも使える多目的ホールとなっている。
地方は車社会で隣市に行くのに30分もかからないのに、
まるで競うように「○○ホール」とやらがある。
ところが、そこを借りるとなると、
大体の公演は休日が多いので予約は取りにくいのが現実で、
その代わり平日の利用者は少ない。
ホールは設計段階で音楽が主なのか、
市の関連行事や発表会などの多目的利用が主なのか、
それとも予算によるのか音響効果はそれぞれ違うようだ。
素人の私には分からないけれど、
耳の良い人には音の感じ方の出来不出来が分かるらしい。
私がただ思う良いホールの条件は、
小さなピアニッシモがホールの隅々まで響き渡るかどうかに尽きる。
音楽専用のコンサートホールと言えば、
頭に浮かぶのは有名なサントリーホールだ。
いつか行ってみたいとずっと思っていて、
今回やっと実現した。
客席が演奏者の後ろにある光景はテレビでよく見ていて知っていた。
その席で合唱団が立って歌っているのも当たり前の光景だ。
今回は全体を見渡せる普通の客席に座ったけれど、
指揮者の顔を見て鑑賞する背後の席の音響はどうなのだろう。
また、演奏者の後ろ姿や開かれた楽譜を見る感じもどうなのだろうか。
それに加え、大ホールにびっしりと埋まった観客の姿はどう映るのか。
この日の公演は小林研一郎が東京フィルハーモニーを振った。
レクチャー付のコンサートで、シンフォニーの迫力は当然だけれど、
アドリブでコンマスのちょっとした奏法の披露が数秒あり、
このホールの音響の威力を感じてしまった。
消え入るような音なのに最後列に近い私の席まで、
宝石の粒のようなきらめく優雅な音が届いた。
奏者の腕も去ることながら、
こうした立派なホールだからこそより素晴らしいのだ。
あのアドリブはレクチャーということで、
ユーモアたっぷりの指揮者がサービス精神を発揮し、
突然コンマスに弾かせたものだった。
指揮者はこの奏者の素晴らしさを観客に知って欲しいと力説した。
予定にはなかった披露だったと思う。
その後、天国から響くようなあの美しい旋律がずっと頭から離れない。
それにしても、もし、背後の席で聴いていたら、
あの音はどんな感じで聴こえたのだろう。

毎年欠かさずやっている私の野菜作り、
土は台所の生ごみで作っているし、
庭の雑草も全て土に戻しており、完全な有機栽培と言える。
私は露地物しか食べないし、旬の野菜と決まっている。
そのための野菜作りなのである。
お店で買った夏野菜の苗を植えるのは大体が5月の連休辺りで、
6月末になるとミニトマトなどが採れるようになる。
ずっと続けているので初めの頃と比べ、かなり腕は上がったと思う。
出来不出来は天候の影響が一番大きいけれど、
薬を使わないので虫にやられる場合も多い。
それに、どんどん大きくなる野菜を支えるため、頑丈な支柱が必要だ。
それを野菜の周りに丁寧に立てなければならないのに、
うまくできず茎が倒れて失敗する。
今年は大トマトの苗が立派に育ち、青い大きな実をつけてくれた。
ミニトマトは鈴なりになるけれど、
大粒のトマトは難しいのでとても嬉しかった。
青いトマトが真っ赤になる迄は長い。
それこそひと月ほどかかるのだろうか。
毎朝眺めては楽しみだった。
ところが、正面から見ると立派な実なのに、
裏を触ったら何と全てのトマトが腐りかけている。
まるで張りぼてだ。

数えると15個は駄目になり、生ごみになってしまった。
そこで、仕方なくまだやられてない固い青トマトを収穫した。
それを薄切りにしてサラダにしようと思いついたのだ。

軽く塩を振って玉ねぎなどと和え、酢を加え、
仕上げに和食の場合はごま油、洋食の場合はオリーブ油を足す。
これが、とっても美味しくて、
大トマトは赤くならないうちに食べることに決めたのだった。
長い梅雨のせいで虫に襲われ腐ったのだろうけれど、
これを生業としている農家の人が、
薬を多く使ってしまうのは当然と言えば当然なのかもしれない。
そうしなければ生計が成り立たないだろう。
楽しみでやっている私とは違う。
(写真上 青々と大きい 中 裏側が腐っていた 下 青トマトのサラダ)

水田のあぜ道の草に朝露がキラキラと光っていた。
まるで宝石の玉を無数に散りばめたみたいで見惚れてしまった。
どうやら今日は少し晴れてくれるらしい。
部屋干しを続けている洗濯ものも乾きそうだ。
今年は梅雨が長くて、かつての日本の梅雨のようだった。
そのため室内の湿度がとても高くなり、
除湿しないと全身がベトベトと汗まみれになる。
次々と増える洗濯物を洗ってもサラリと乾いてくれない。
けれど、梅雨明けが待ち遠しかった日本の昔ながらの梅雨が戻ってきたようで、
私は何となく嬉しい。
気温もその頃に戻って、
以前のようになってくれるのではないかと期待するのだ。
でも、それは無理なことで、お日様が少しでも顔を出すと、
気温はたちまち40度近くなって逃れようのない暑さになる。
朝露は美しいけれど、今日もそうなりそうな予感がする。
この7月、クーラーなど必要なかった緯度の高いヨーロッパにも熱波が襲い、
何万人と亡くなったらしい。
想像を絶する44度を記録したのだから。
梅雨の雨はお米作りにも欠かせない自然の恵みである。
お米以外にも食べ物全て何もかにもが自然のサイクルに従って回っている。
それがひび割れると私たちはたちどころに飢えてしまうのだ。
とはいえ、今をとにかくやり過ごし、生き抜くため、
より多くのエネルギーを消費し、ますます自然のサイクルを壊していく。
今はAIがそれを加速させている。
人間の尽きることのない経済活動、これはもう人間の性である。
その性により多くの天災を招いているとしか思えない。
一体どうしたら良いのだろう、途方に暮れるばかりだ。
(写真を拡大すると朝露がはっきり見える)
以前、友人とバスを使って隣町に行った時、
ランチの店を探して、ようやく見つけたのが美味しい蕎麦屋さんだった。
そこはバス停から30分ほど歩いた不便な場所にあった。
その町は広い敷地に洒落た家が並んではいるけれど、
とある大型施設が撤退したせいで、
目抜き通りの専門店が次々と閉まり、
すっかり町は閑散とした住宅街になっている。
ちょうど昔、車窓で見たアメリカのダウンタウンの雰囲気だ。
デザインの凝った家々には、バーベキューを楽しむためだろう、
素敵なテラコッタの敷かれた庭がついている。
なのに、何となく生活の匂いらしきものが薄く、
果たしてどれほどの家庭がここを終の棲家にして良かったと思っているのだろうか。
そんな不謹慎な老婆心が頭をよぎる。

この日は別な友人にお礼をするためにわざわざやって来たのだ。
バスは本数が少ないので、急いで歩かなければならない。
カンカン照りの中、住宅街に沿って、
人っ子ひとり会うことのない広い歩道をひたすら進んだ。
車社会だから人が歩くという想定は成されていないのが地方の町である。
なるほど例にもれず緑の水田の広がる中に、
24時間営業の大型スーパーもあり驚かされた。
歩くのが好きな友達だから喜んで歩いてくれたけれど、
帰りのバスの時間を思うと、私たちは気が気でなかった。
持ち時間は90分、30分歩いて、30分で食べ終える。
そうしないと帰れないのだった。
お店は混んではいたがどうにか座ることができて、
前に一度食べたことのあるランチメニューを迷うことなく二人分頼んだ。
手打ち蕎麦の味は通ではないけれど、ここのは私には上等に思える。
友達も美味しいと言ってくれて嬉しかった。
でも、ふたりとも帰りの炎天下での30分の歩きについて心配ばかりで、
急いで食べて蕎麦湯をもらい、立ち上がった。
お店にいたのはものの20分ぐらいだろうか。
レジでお金を払っていたら、背後から女性の声がした。
「こんなに遠いのに歩くのは大変、狭いけどどうぞ」と、
声をかけてくれたのだ。
何と、有難い。
私たちは二つ返事で手を叩き合って大喜びした。
実は、食事中に後ろの席で私たちの話の内容が聞こえ、
乗せてあげようと思ったのだそうだ。
東京ナンバーの車で来た穏やかな感じのご夫婦だった。
車に乗ると、バス停にはあっという間に着いてしまった。
ほんの数分だけど、その方たちの優しさが身に沁みた。
私たちは車を降りると、見えなくなるまで頭を下げ続けた。
おかげで時間が余分に30分もできたので、
バス停隣のスーパーにある休憩コーナーで、
冷茶を貰い、のんびりと休んだ。
そして、友達がにっこり笑って、
「有難かったね。私たちもきっと同じことをしたよね」と呟いた。
そう、私たちもこんな場合、乗せるに決まっている。