
いつも使っているお米を計るプラスティックのカップを、
思い立って木製の桝に替えた。
昔はアルミやプラスティックなどなかったので、
分厚い木製の桝は何台も経て渋さが増し、
代々使い込まれて来た風格が滲む。
確か私の記憶では、豊臣秀吉が全国的に同じものに統一したのだった。
紀元前の秦の始皇帝は中央集権強化のためには度量衡を統一し、
日本では秀吉の時代に改革が行われたのである。
今と違って税金は農民から取りたてたお米で、
その単位は10合は1升で、10升を1斗と言った。
荘園土地を持つ領主は都合でばらばらにして器を作り計っていたので、
中央集権を確立させたい秀吉が手を付けたのだった。
驚くことにこの桝は、
他国からの伝来モノではなく我が国独自のものである。
台所には大きな1升桝などないけれど、
私が子供の頃はお米屋さんでよく見かけていた。
側面の屋号の焼き印に店の誇りみたいなものを子供ながらに感じたものだ。
使い続けられた存在感、まさにそれである。
今でも厄落としのための節分の豆まきは、
この1升桝から人々にあまねく降り注げられる。
そんなことをわざわざ思い出させてくれるのは、
やはり、器が自然素材でできたものだからなのだろう。
釘も使わず組み込み細工でできている。
こうした自然のものはいつか大地に戻っていく。
今まで何年も使っていたプラスティックの計量カップは、
経年劣化の汚れがひどく目立ちこんな思いは湧いてこない。
だから、この日の夜はお土産に頂いた岐阜のお酒を桝に注いでみた。
しゃれた飲み屋ではこの桝の中にグラスを入れて、
桝の底にこぼれ落ちるほど注いでくれる。
最後に残ったお酒を一滴残らずグラスに戻す。
そんなシーンが脳裏に浮かぶが、
直接四角い桝からお酒を飲むには角から飲んでも、
面から飲んでも口元からこぼれてしまい、
結局はグラスに移して飲むことになった。
それでも、桝になみなみと注ぐひと手間は、
普段のそれよりも遥かに楽しいものとなった。










