時々、関東地方を東西に走る。
この時期は、桜の時期で花が満開になるまでの過程が味わえて嬉しい。
開くまでのグラデーションとでも言ってよいのだろうか。
所用のある多摩の桜の見えるところで手づくりのお弁当を食べた。
間に合わせのお弁当だったのに、心の底から美味しいと感じた。
何より贅沢と感じ、目の前の桜がより美しく見えた。
つい少し前、立ち寄った病院で、
ひとりの老女がコンビニのサンドイッチを食べていた。
横にはペットボトルの飲み物がある。
病院の休憩所だったから老人がいるのは当たり前とはいっても、
その人の食べる量が凄かった。
見ている間に三つのサンドイッチを開け、
ずっと食べ続けていた。
私はほんの少しのお弁当で心もお腹も満たされている。
でも、その人は充たされないから食べ続けていたのだったのかも。
もし、買ったものではなく食べなれたお弁当だったら、
きっとあんなに食べ続けてはいなかったと思う。
その人を見たときは変な人だと思ったけれど、
あの人は空腹感が満たされないのだと思うと悲しくなった。
齢90年の悲哀が食に現れているのだ。
彼女の目に映る満開の桜は、
私の目に映るそれとは全く違うということが、
分かるような気がした。
人は決して同じ地に立っているのではない。