桜の花が満開になると、
視界のあちこちに桜の木があることにあらためて驚く。
それは葉の緑がないためにいかにも目立つのだ。
さくらの木は川沿いに長い並木のかたちを呈していたり、
独立峰のように一本だけ孤高に立っていたり色々だ。
そのどれもが心を打ってならない。
木に咲く花というものは実に力強く美しい。
厳しい冬を幹でふんばり、冬芽を忍ばせ、ついに花開くからなのか。
その過程が過酷であればあるほど人の目を癒してくれるのだろう。
そんな意味では北国の桜にはもっと意味があるのかもしれない。
花の方には何の意志もないとはいえ、
まるで人間のために咲いてくれているようだ。
かつてのように桜が終わっても標高を変え、桜前線を追いかけたいけれど、
今は体調を崩している私、車窓の桜で満足しよう。
ウクライナでは明らかに大量虐殺(ジェノサイド)の悪夢が現実となっている。
ひとりの狂った男とそれを支える人々のせいで、まさかの21世紀となった。
桜も開いているだろうにと思うと胸塞がれてならない。
あの国の花だというヒマワリも愛でることができない日々が待っている。
昨夜も1時間しか眠れなかったけれど、
そのことを思うと大したことではないではないか。
私の空から爆弾は落ちてこないし、足元に地雷の危険もない。
いきなりならず者の軍隊が食糧を奪いに来たり、
服をはぎ取り強姦し、銃で撃たれ、野ざらしにされることもない。
桜よ、どうかウクライナの人々に幸せを取り戻してください。
もう神には祈らない。