今日は人生初めての日だったなんて

好奇心がある限り心を文字で表すことは大切です。日記を書きます。

イチゴを摘む日々

f:id:anzufig:20210518113011j:plain

今年もイチゴが色づき始めた。

庭を覆った緑の茂みの中から真っ赤なイチゴを探して摘み取るのは楽しい。

我が家の庭の三分の一ほどはイチゴの絨毯のようになっていて、

もともとあった芝生を侵食してしまっている。

 

考えてみれば刈り込みに手間のかかる芝生よりも、

苺は何もしなくても実るし、

青々としたその様子は雑草と違って目の保養にもなる。

雑草が生えてくるのもその葉陰で防いでいるようで。

 

秋になったら新しい芽を他の場所へ移してあげれば、

そこからランナーを伸ばし始め、

瞬く間にストロベリーフィールズになる。

何という生命力の強さだろう。

 

今年のイチゴは少し小ぶりな気がする。

大豊作の去年と比べると貧相な実で、生食にはパンチに欠ける。

でも、イチゴは日々集めて冷凍し、

たまったところでジャムにしているからワイルドなものでも全然平気だ。

 

そんなわけで、朝夕、容器を持って、

庭のイチゴを見回って収穫するのが、最近のルーティンになっている。

 

Strawberry  field  foreverのメロディが頭に浮かぶ

 

モバイルデータ通信をOFFにしていたから

昨日は隣市のショッピングセンターに行ってきた。

コロナ蔓延のせいかいつもよりかなり客が少なく、

広い売り場は閑散としていた。

不要不急の外出をやめた人が多いのだろうが、

私は余り気にせずあちこちの売り場をふらついた。

 

でも、買いたいものがなくて見るのにも飽きてしまい、

外に出て大通りの先の本屋に行った。

雑誌コーナーや平積みの単行本コーナーを見ても、

以前のように手に取ることもなかった。

ここでも欲しいものがないのだった。

 

そうしていると、

友人から「今、ショッピングセンターに来ているよ」という連絡があった。

同好会仲間の彼女とは最近は余り会えないので、

積極的にラインでのやり取りをしている。

私がここに行く来ていることも事前に連絡しておいたのだった。

彼女の家はここから近く、買い物ついでにやってきたと言う。

 

ハンバーガー屋の前で待ち合わせることになり、

急いで店に戻ったらほどなく友達もやってきた。

彼女は最近スマフォを替えたらしく、

「ちょっと変だから見て欲しい」と困った顔で言った。

自宅のWIFIでしかネットが繋がらないというのだった。

それが二月ほど続いているという。

 

私のわずかな知識で設定画面を開き、

可能な限りのことを試してみたけれど、

スマフォに直接飛んでくるlte電波は×のままだった。

そこで、私も諦めて、

キャリアのカスタマーセンターに聞くようにアドバイスした。

 

 

私の持つルーターで彼女のスマフォに電波を飛ばし、

センターの人の遠隔操作を含むあらゆる手立てをした。

それでも駄目だったので、

最後に設定から「モバイルデータ」のON OFFを開くことになった。

すると、何とそれがOFFになっていた。

つまり、WIFIのみの使用に限定してあったのである。

 

30分以上もセンターの人を悩ました彼女だが、

単なる初歩的なミスに過ぎなかったのだ。

窓口の男性には何度も感謝の意を伝えた。

 

でも、原因を見つけられなかった私も、

彼女同様に相当なデジタル音痴人間に違いないと思った。

 

 

 

 

 

「人流」って言葉は人がモノのように思える

最近とても気になっている言葉に「人流」という表現がある。

ニュースをつければ政治家が堂々と使っているのだ。

民放のアナウンサーも言うのだから一日に何度も耳にするようになった。

「この言葉、何かおかしい」と思って辞書で引いたらなかったし、

ワープロでの変換も為されない。

 

きっと最初にこれを口にした人は、

人の流れをモノの流れである「物流」になぞえたのだと思う。

人とモノとを同じように扱うなんてまっとうな表現ではない。

ただ単に「人の流れ、人の動き」と言えば済むものを。

 

言葉というものは生き物だから、

時代とともに変化していくのは避けられないし、若者が省略した言葉を多用したり、

全く反対の言葉を用いるのは仕方がない。

 

でも、政治家やテレビアナウンサー達が、

そうした言葉を安易に使い、世の中に広めていくのは如何なものだろう。

正しい言葉はきちんと継承されなければならないと思う。

 

 「人流」で思い出したけれど、

大分前にとある土木の見積書に「人足」という欄があって驚いたことがある。

「人足」に数字が書かれていて単価が書かれてあった。

「人足」という表現は、映画用語では通りすがりの人を演じる人のことを言い、

波止場での荷揚げ作業などで働く人も「人足」らしい。

要するに下っ端の作業をする人々のことだ。

 

こうして考えると言葉の表現が人間の意識をよく表していると思う。

「人流」と事も無げに言えるということは、

人をモノとして捉えることに違和感を感じない人なのだろう。

 

このコロナ禍において毎日発表される様々な数字を見ていると、

人はモノとして扱われていることに段々と慣らされていくような気がする。

 

フキ味噌を作る

先日、友人がフキノトウのおすそ分けをしてくれた。

それは、仲間の一人が住む雪の国から送られてきたもので、

採ってから5日ほども経っており、見た目も決して新鮮ではなかった。

f:id:anzufig:20210514174818j:plain

 

わずか五つほどだったけれど、フキ味噌にしてみた。

すると、このあたりの八百屋のものと比べると、

とても風味が良く春の味を強く感じた。

こちらはとうに初夏になっているから、「春再び」という感じになる。

 

味わいの差は、深い雪が解けてやっと頭を出したフキノトウと、

野菜のように育てられた畑のそれとの違いからくるものだと思う。

ワラビもゼンマイも雪国の山菜はとても茎が太くて長い。

 

雪国の山菜は1年のうちの数か月も大地が雪に埋もれているため、

地中で英気を養っているから大きくなるのかもしれない。

雪解けから一斉に芽を出す植物は、昔から人々に希望を与えたことだろう。

 

フキ味噌はフキノトウをみじん切りにしてごま油で軽く炒め、

味噌でかさを増し、本返しと少々の日本酒で味付けする。

これが本当のやり方なのか知らないけれど、ずっとそうしてやってきた。

 

そのほろ苦いフキ味噌を白いご飯に乗せて食べた後、残りはおむすびに使った。

9個のおむすびができて、ラップに包んで冷凍する。

 

来月仲間たちが来ることになっているので、

電子レンジでチンして食べてもらおう。

冷凍しても味が落ちないことを祈るばかりだ。。

山頂からの電話

昼前に番号だけが表示された知らない人からの電話があった。

私の携帯電話に登録されているのは、

少なくとも一度は関わり合った業者とか知人の番号だ。

普段ならそんな電話は無視するのだが、

「もしや」と思って電話を取った。

 

昨日、どこかで失くしてしまった位置情報機器には、

私の名と連絡先を書いてメモを貼ってあった。

こんなこともあろうかと念のための策だった。

だから、昨日はもし親切な人が見つけてくれたなら、

何らかの連絡があるのではと一縷の期待があったのだった。

f:id:anzufig:20210513060120j:plain

 

電話の主は高齢の男の人だった。

「○○さんですか?」との一言に、私は飛び上がって喜んだ。

すっかり諦めていたのでまるで降ってわいたような話の感じだった。

 

その人は今、まさに山頂の丸太のベンチにあった忘れ物を見つけたそうだ。

全く記憶になかったので、私はとても驚いてしまった。

確かに要所要所で機器を取り出し、位置情報を確認していたけれど、

そのままそこへ置いて行ったとは、相当なうっかり者だ。

 

電話の声が不明瞭だったため、

なるべく近いうちに取りに行くことで話はついた。

早速一緒に探してくれた友人に連絡しておいたら、

仕事中にも関わらず「良かった、良かった!」という返信があった。

 

昨日の帰りの道すがら、友達とはこんな会話していたのだった。

忘れ物に連絡先が書いてあったら何パーセントの人が連絡するだろうか、

スマフォを落としたとしてどれほどの人が拾ってくれて交番に届けるか等々。

 

今回は親切な人が連絡をくれたのだ。

まだまだ人は捨てたものではない。

早いとこお礼を持って受け取りに行かなくてはと思っている。

 

それにしても何という時代だろうか、

相手は山の上から私に連絡をくれたのである。

一昔前の人が聞いたらびっくりするに違いない。

忘れ物が多くなってしまった

最近、出かけたら必ずのように忘れ物をしてしまう。

今日は何ととても高価な電子機器をどこかに置き忘れてしまった。

頭を捻ってもどこで落としたのか置き忘れたのか、

記憶が錯綜して思い出せなかった。

もしかしたら最後に休んだ水場だろうか。

 

友人と楽しく歩いた岩の山を下り、車に乗り、駐車場から帰路に着いた。

こんな時、最近は忘れっぽくなったので、

発車する前に念のため車の周囲を見てから動くことにしている。

正月に山靴を脱いでそのまま置きっぱなしにしたことがあるからだ。

 

しばらく走ってスーパーに寄った時、

荷物のそばに置いたと思った電子機器が見当たらなかった。

何となく気がかりで車の中を探してみる。

どこかで置き忘れたらしく案の定どこにもなかった。

 

体力のある友人が「戻ってみましょう」と強く言うので、

また駐車場に走った。

車を止めると、念のため懐中電灯と水を持ち、

心当たりのある水場まで登り返した。

f:id:anzufig:20210512114813j:plain

途中で下って来た女性に尋ねてみたけれど、

下を見て歩かなかったので分からなかったということだった。

友人はもっと先まで戻って探そうと言ってくれ、とても有難かった。

 

でも、時間がない、彼女は電車に乗って帰らなければならないし、

明日からまた仕事だ。

今から歩き返すと今日の内に家に帰れなくなるだろう。

私はもう諦めることにした。

 

どんなに高価なものだっていつかは壊れるし、

新しいスマフォも買ったばかりだ。

それを使いこなせばいい。

そう無理やり思って気分を変え、

一緒に心配してくれた遠来の友人に何度も有り難うと言った。

 

 

 

 

 

 

置き配サービスに思ったこと

f:id:anzufig:20210511110032j:plain

連休前にアマゾンで注文した品がやっと届いた。

休みの間、自宅付近はとても静かで配送車の姿も見かけない。

国道に出ても乗用車ばかりが走っていた。

多分、運送会社も以前と違い、長い休みを取っているのだろう。

 

連休直前に注文したのがいけなかったのか、

配達予定の時から今か今かと待っていたけれど、一番最後の今日に届いた。

勿論約束通りに届いたのだけれど、待っている間は気が気でなかった。

 

待つということは時間の概念を変えてしまうらしく、

1日が何日も感じられるほど長かった。

ネットショッピングでは最も高い支払いをしたためもある。

 

最近はブランドなりすましなどの詐欺が多発しているらしく、

「もしかしたら」などと不安に思ったのだった。

おまけにアマゾンを名乗ったメールが連日続々と来て、

つい注文の関係かと思い、開いてしまいそうになる。

 

でも、じっと我慢して一週間後待ち、

昨日、やっと「発送完了」のメールがあった。

やはり、運送業者も長い休みを取っていたのだ。

 

今朝は玄関チャイムに気を付けながら過ごしていたけれど、

お昼過ぎまでチャイムが鳴らない。

たいていはお昼直前に配達されるので、

念のため玄関に出てみたら、台の上に段ボール箱が置いてあった。

置き配だったのである。

 

「置き配」とは留守がちの家に何度も無駄に配達をしないようにするために、

やむなく行われるようになった配達方法である。

今はコロナの影響もあって対人がなるべく避けられて、

在宅なのに置き配が主流となって来た。

でも、高価な品物だから玄関チャイムくらい鳴らして帰って欲しかった。

 

凄い時代になったものだと思う。

でも、注文品はうたい文句通りの新品で、

きちっとした保証も効くようで胸を撫でおろしている。

 

しかし、それにしても「置き配」に対する人間の信頼性は、

一体どこから来たものだろうか。

社会が成熟しているからなのか?