今日は人生初めての日だったなんて

好奇心がある限り心を文字で表すことは大切です。日記を書きます。

会話こそが大切なのに

今日はお昼は蕎麦屋に行った。

あの親切な店主夫人がいるところだ。

友人を連れて行ったらコーヒーをご馳走してくれた、

今時珍しい地元密着型の昔ながらの蕎麦屋だ。

 

一時を過ぎていたせいか先客の男性が出ていくと、

小さな店内に客は私たちだけになった。

店主夫人がお茶を運びながら、

壁のお品書きが新しくなったと笑顔で言った。

 

最初にここへ来た時は、

セピア色になったそのお品書きが印象的でその話題をしたっけ。

今時、あまり見ることのない達筆な文字だった。

それが新しくなって貼ってある。

 

注文したのは鴨せいろ、ざる蕎麦、かつ丼など。

取り立てて美味というわけでもないけれど、

その値段の手ごろさと店主夫人のもてなしで味が倍加する。

 

食べ終わると、またコーヒーを出してくれた。

調理専門の主人は出前かごをぶら下げたバイクで出かけて行った。

寡黙で大人しそうな人だ。

この店が半世紀ほど続けてこられたのも、

二人の人柄がそうさせたに違いない。

 

帰り際に本の話題になった。

彼女はある画家が好きで、その人の画集をずっと探しているという。

たまたま私はその画家の本を持っていたので、

お礼に差し上げると約束した。

 

すると、彼女は白い割烹着で手を拭きながら、

「まあ、嬉しい。人とは話してみるものだわ。

そうすると、アンテナ線が広がって可能性も広がるのね!」と、

満面の笑みを浮かべて言うのだった。

 

この人は長い間、お店に来た客と会話を交わしながら、

こんなふうに交流を深め、地域に根差してきたのだのろう。

他人と話をするということは、人間の基本的なコミュニケーション方法だ。

 

近頃はコロナのせいもあって他人と触れることは愚か、

話すことさえままならなくなった。

調理から会計までロボットが対応する寿司屋の売り上げが、

何倍も増えているというご時世だ。

そんな意味ではこの店はとても人間らしい店だ。

 

なるべく早く本を持って行ってあげよう。

 

 

 

野外遊びをする人が増えた

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今日のラージヒル公園は、

車を止める場所がないぐらい混んでいた。

いつもなら好きなところに止められるのに、

連休の遊び場に困った人たちが押し寄せてきたのだろうか。

何だか尋常ではない混みようである。

 

人間とは食べる下地ができたら、

遊びに向かおうとする強い欲求があるのだろうか。

ホモ・サピエンス(考える人?)とはホモ・ルーデンス(遊ぶ人)でもある。

少し意味は違うけれど、

日本の昔にも「遊びをせんとや生まれけん」という有名な文句もある。

誰だって家に閉じこもってばかりでは息が苦しくなる。

 

山や森はしゃれた遊具はないけれど、

足底を刺激する岩や青葉の揺れる様、鳥の鳴く声など、

様々な自然からの贈り物に満ちている。

 

それらを五感で感じながら、小さな子たちも嬉々として歩く。

自然の中を歩きながら、きっと心は遊んでいるのだろう。

また、転んで怪我をしないように身を守る術も学んでいる。

 

子供たちは会う人ごとに挨拶を交わし、

その小さなマスク顔の瞳があどけない。

ただ、こんな野外の壁のない空間でも、

マスクはもう顔の一部のようになっていて気の毒になる。

 

 

多くの人と行き交うので、

私はマスクをするのを時には忘れるが、

誰もそれを咎めたりはしないから嬉しい。

 

さて、今日もありきたりのインスタント・ラーメンだ。

食事が済んだらロープで遊ぼう。

 

 

 

 

 

明日への希望なくしてどこまで耐えられるか

長いこと続けている趣味の会に今日は出席できた。

コロナのおかげで去年からは会場が閉鎖されてばかりで、

本当に困ってしまった。

四月からやっと可能になったのだ。

 

さて、今度の東京などの緊急事態宣言で、この辺りの地方はどうなることか。

おそらくその内にまた会場の使用禁止となり、

仲間のみんなと会えなくなる日も近いかもしれない。

 

日本中のお祭りもまた中止になるのか。

何百年も続き存続の危険にさらされていた伝統の祭りも、

中止が続くと継承する人がもっともっといなくなるかもしれない。

 

趣味の会すら風前の灯火になってしまわないか。

今日の続きが明日もあるとは奇跡に近いことなのだ。

それぞれがきっとそんな思いにとらわれているに違いない。

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世界中の人が同じ思いをしているだろう。

どこまで私たちはそんな世界に耐えられるのか。

壮大な実験は続いている。

私たちにできることは何だろう。

 

(写真 散歩時に見たトカゲの交尾)

地震は人が乗り越えられない災難だと思う

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今朝、また地震があった。

30秒ほど長い横揺れが続き、

いつものように狭いトイレに逃げ込んだけれど、

モノが落ちてくるほどの揺れではなくホッとした。

 

テレビをつけるとまたしても震源地は東北の日本海側だった。

幸い津波はなく被害も少なかったようだ。

どうやらここらあたりは震度3だったようだ。

 先月も気になる揺れがあったので、

地震の前触れなのかと不安になる。

 

311の福島沖大地震の時も前兆のような地震が続いていた。

今、またあんな大きな天災が襲ってきたら、

コロナでこれほど苦しんでいる日本は一体どうなるのか。

 

人間は3Dで何でも作れたり、

掌に収まるデバイスで世界中の知らない人と更新したり、

360度のカメラで自分の姿を写したり、

そんな途轍もないことができるようになったのに、

地震一つ止められないし、コロナウイルスもやっつけられない。

 

よく考えてみると地震はマクロの現象で、

ウイルスはミクロの最たる現象だ。

どんなに科学が進歩しようと人間には乗り越えられないものがある。

テレビのニュースを聞きながら、そんなことを実感している。

(写真 これも強風による天災か?散歩をしていたら山火事の跡があった)

眠りが浅いと損をしている気がする

昨夜は長い運転で疲れていたというのに、今朝、四時には目が覚めた。

もともと眠りが浅い傾向のある私は、人より多く寝ていないと、

まともな睡眠時間を取ったことにはならないと思っている。

だから、今日も寝不足かもしれない。

 

でも、友人たちとの合宿や旅行などで部屋を共にした時、

自分としては全く寝られなかったと思うのに、

そのことを言うと、

「あら、結構寝てたわよ、スースーと気持ちよく」などと言われる時もある。

 

実際はどうなのだろうか。

スマフォに自分の睡眠を分析するアプリがあると言うが、

それを使うと私の睡眠はどうなのだろう。

自分としては悶々としているのに、

本当にスヤスヤと深く眠っているのだろうか。

 

昨夜は真っ暗なうちから目が覚めて、夜明けを待って起き出した。

床に就いたのは10時ですぐに寝入って、多分3時頃に目が覚めたと思う。

おおむね5時間は寝ているのだから、

忙しい人と比べたらじゅうぶんすぎるのかもしれない。

 

標準的な睡眠時間とは眠りの深さ浅さで異なるのだと思う。

眠りが深い人はナポレオンのように3時間でも大丈夫なのだ。

大体世の中の偉い人は睡眠時間が短いようだ。

そこまでしないと時間が足りないのだろう。

 

 

そんなわけで、寝室にはわざと時計を置いていない。

以前、やはり夜中に目が覚めて、時計を見たら12時前でがっかりし、

なかなか寝付けなかったことが何度もあるのだ。

 

眠りの浅い私は物音でもすぐ目が覚めるし、

眠りの深い人より人生の持ち時間をとても損していると思う。

眠りの深い人が羨ましい。

 

でも、あの相対性理論を打ち出した天才学者のアインシュタインは、

部屋の鍵を閉めて10時間は寝ていたそうだ。

きっと眠りが浅かったのだろう。

 

 

 

 

 

 

一定のキーボードが効かなくなった

タブレットが壊れたと思ったら、

今度はパソコンのキーボードがおかしくなった。

一定のキーが表示されないのである。

 

たまたまパソコンを開く時のパスワードが、

最初にその不調になったキーを使わなければならないので、

パソコンそのものを開くことができない。

何度やってみても入力できなかった。

 

せめてウインドウズを開くことができたら、

液晶はタッチパネルになっているし、キーボードも出すことができる。

でも、これではお手上げだとしか言いようがない。

 

パソコンに詳しい人なら何か別のキー操作で文字盤を出せるのだろうけれど、

私にはそんな深い知識はない。

仕方なく、昔のキーボードをUSBコネクタに繋いで使うことにした。

これは今、まさに使っていて、少し不便なところもあるけれど、

充分に役立っている。

 

そこで、本当に新しいキーボードが壊れてしまったのか調べるために、

古いパソコンに繋ごうとした。

そうすれば犯人が何だか分かるだろう。

 

すると、新しいキーボードはbluetoothブルートゥース)通信で、

コードがなかった。

マウスにもコードはついていないのだった。

 

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今の時代、イヤフォンやスピーカーなど、

煩わしい線のないbluetooth通信で命令が行き交っている。

それらに少しでも不都合が生じたら、

新しい機器を買わなければならないのか。

もし、そうだとしたら何と資源を無駄にしているのだろう。

 

昔のキーボードがとても役に立ったから、

捨てないで良かったとつくづく思った。

私のような人間が殆どだったら経済は成り立たない?

それなら消費経済そのものがどこかおかしくなっているのだろう。

 

さて、このおかしくなった無線のキーボード、

捨てようか、それともとっておくか、悩むところだ。

 

 

 

タブレットに複数の線

突然、タブレットがおかしくなった。

画面に無数の線と丸い黒いシミのようなものが出るのだ。

線はよく見ると色んな色をしていて微妙に震えていたりする。

 

ネットで調べてみたらこういう状況になる原因は、

液晶画面に何か鋭利な力が働いたためだとか。

思い当たる節があるにはあるが、

今までも雑に扱うことは幾度もあった。

 

悔しいけれど何度か電源を切って再起動したりして、

直るのを期待したが駄目だった。

完全にアウトだ。

 

1台目のタブレットは画面を踏んで割ってしまい、

新しいタブレットに替えたもので、これは二台目となる。

使い始めてから2年は経っていない。

 

こういうことはいきなり来るので焦ってしまう。

道具とは壊れた時にこそその本来の役目に気づかされるものだ。

 

タブレットはデータ専用で電話機能はなく、

家のWIHIを使ってラインをしたり、

動画、映画などを見る時に使っている。

寝る時はいつも眠り薬代わりに枕元で見ている。

 

画面がおかしくても中の機能は変わらず生きているため、

記憶を頼りにタップしたり文字を入力したりしている。

でも、何とも不便で仕方ない。

 

前回、液晶が割れた時も中の機能は正常だった。

一体どういう構造になっているのだろう。

 

すぐに買い替えるのは躊躇われる。

何年か前までは持っていなかったのだし、

しばらく不便なままでいようかと思う。

 

さて、いつまで我慢できるだろうか、

私も時代の子なのだから。