今日は人生初めての日だったなんて

好奇心がある限り心を文字で表すことは大切です。日記を書きます。

「いただきます」の意味が身に染みた雄鶏の食卓

生まれて初めてスーパーのものではない鶏肉を食べた。

全過程をひとりの人間、S君がやった。

彼は最近ふ化器を使って自分でヒヨコを育て、

鶏を飼っている。

 

もちろん目的は卵を取るためだけれど、ヒヨコがメスばかりとは限らない。

そこで、オスが成長し、雄たけびをけたたましくやるようになり、

荒さだけが目立ってくると、1から食肉に仕上げるのだった。

 

この作業はもう何羽目かということで、さばく行程も板についていた。

これまで何度か勧められたけれど、

気の弱い私は見ることも食べることも避けていた。

 

その雄鶏は逃げ惑うメスを日に何回も襲っていた。

おかげで狙われた雌鶏はやせ細って、

卵を産むこともできなくなっていた。

 

卵を毎日産み落とす雌鶏は、眠っている時以外は餌を探し、

ひたすら地面を突っついて回っている。

一方、雄鶏はというと餌に向かおうとしたら雌鶏に追い払われ、

滅多に餌を食べられなかった。

なのに、その姿はいちばん立派だった。

狩りをしないサバンナの雄ライオンのようである。

 

雄鶏は壁に隠れてはメスを狙い、突然襲い掛かる。

それは四六時中の行動だった。

雄鶏は交尾だけのために生きているのか?

交尾がしたいために雄ライオンが我が子を殺す例もある。

観察してみたけれど、力関係がよく理解できなかった。

 

さて、雄鶏との別れはこうだ。

みんなで代わるがわる抱きしめて最後の別れをする。

雄鶏は珍しく抱きしめられ、初めて人の手から赤い苺を貰い、

それを一飲みしてはキョトンとした。

そして、住み慣れた地面に放たれると、

自分の毛を抜かれるために用意された焚火を見つめた。

これはグリムの世界かと目を疑う私。

 

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やがて、外国の市場風景のように息の根を止められた雄鶏は、

梅の枝にぶら下げられた。

S君が私を呼びに来た。

もちろん一部始終を見る勇気はなかったので、

要所要所で拝謁(はいえつ)させてもらったのである。

カメラにも納められなかった。

 

それが、いつの間にか白いホーローのトレイにきちんと並べられ、

S君がまるで理科の教師のように部位の説明をした。

「これが、ムネ、これが砂肝、これが精巣…」と、

私が初めて聞く部位もあった。

 

目を閉じたいのに段々と先ほどの鶏が食料に見え始めてくる。

週に一度は必ずのように食べている鶏肉が、

こうして元の生き物の姿から変わっていくのを見てしまうと、

肉食というものがいかに大変なものかが分かる。

それは、命を食べるということなのだ。

 

まだ二本足の鶏だから気分は楽だけれど、

これが四本足の動物となると想像に余る。

誰かが食肉工場で夥しい量の肉を生産しているのである。

 

この日の雄鶏は私の提案で串刺しの焼き鳥になった。

串を通せないような硬い肉だったが、有難味は何倍もあった。

「いただきます」の合掌がこれほど意味のあるものはない。

 

最後にそぎ取られた骨はオーブンで焼かれスープのもとになった。

出しを取った骨と抜かれた羽だけが捨てるものだ。

命を頂くとはそういうことなのである。