玄関に出たら沈丁花の花が開いていた。
暖かな春はすぐそばに来ている。
ロシアがウクライナに進行してからもうすぐ一年が経つ。
あの時は世界中が息を呑んだ。
平和に暮らす人々の頭上に容赦なく打ち込まれるミサイルの光景に、
日本に住む私もとても驚いた。
一年前、まさかこんなに長引くとは誰も思わなかった。
つまり、誰もがロシアが勝って、
戦いは3日ほどで終わるのではないかと思っていたのだ。
私は生まれた時から民主主義の国で生きてきた。
だから、ごく当たり前のように世界の政治は民主主義だと思っていた。
ところが、今回のロシアが始めた戦争で、
実はそうではなかったことに気づかされた。
自由に生きることのできる民主主義社会は、
世界では少数派なのだった。
その後、侵略が激化するにつれ、
ロシアという国の基本的な考え方の相違に毎日驚かされている。
人々が声高に国のために死ぬことは誇りあることだと叫んでいる。
そして、敵国の人々を殺せとも言っている。
日を重ねるごとに多くは個人の死というものが、
カルト的なものとして培われてきたのかもしれないことを知った。
私の考えではカルトとは何か実体のない精神性のようなものに思える。
「○○のために」死ぬということ、
それはある意味そうしたカルト的なものにしか思えないのだ。
自分の存在する位置により、カルトの種類は様々だ。
でも、そのようなカルト的な死が人々の営みを支えてきたのでは
ないのか。
ウクライナの人たちは私たちが思うように、
「民主主義のために」戦っているのではなく、
おそらく彼ら自身は家族のためにのアイデンティティを守るために戦っていると思う。
ひまわりの花に象徴されるアイデンティティだ。
私たちもいつか大きな敵と戦う日が来るかもしれない。
その時の私たちが守るべきアイデンティティとは何だろう。
この問いはカルト的死を肯定しているようにも思える。
難しい問題を考えてしまった。
青空の下、まるでひまわり畑の迷路に入ってしまったような問いが果てしなく続く。
私は祈るしかないのか。