連日のウクライナの報道で、死というものについて考えた。
国と国との戦いで普通の市民が死んでしまうことも、
また徴兵のために戦地に赴き死んでしまった兵士についても、
その死は国のための「無駄死に」に過ぎないと思ってきた。
ところが、今回のかの地での戦いはそうではなかった。
彼らの死には尊厳があり、深い深い意味がある。
死にゆく人は愛する国を守るためと言い、国民が国と一体になっている。
愛国心というものの力、それを強く感じてならない。
第二次大戦の時、日本国民は天皇のために死ぬのは名誉だと教育された。
反戦運動は今のロシアのように封じ込められ、
新聞も大東亜圏を叫ぶプロパガンダに協力した。
天皇も軍部に従わざるを得なかった。
ウクライナは日本の大戦の時とは異なり、
突然に他国から宣戦布告もなしに襲われた。
人々は戦うことを覚悟し、大統領の思いと完全に一致した。
愛国心は強制ではなく、自ら生まれたのものだ。
あれほど「欲しがりません、勝つまでは」と徹底抗戦を叩き込まれたのに、
ただの一度も市民が「竹やり」を持つこともなく、日本は降伏してしまった。
もちろん空襲や原爆投下による市民の死は敗戦の大きな理由だが。
米軍そのものが上陸し、敵と戦ったのは、
沖縄のひめゆり学徒隊(女学生で作られた総勢240人の看護要員)ぐらいだと思う。
彼らのうち何と136人が戦死し、10人は教師とともに集団自決している。
生きていたら沢山の幸せな人生が続いていたはずなのに。
彼らは国のプロパガンダによって死んだのだ。
ウクライナは強制ではなく、
自ら国を守ろうと市民が覚悟しているようにしか思えない。
それが、世界の人たちの心を強く揺り動かす。
国とはどうあるべきかも考えさせてくれる。
でも、これ以上犠牲者が増えて欲しくない。
何とかならないのだろうか。
悪魔の顔をした殺人鬼と戦い続け、人生が終わり、
人生が壊れるなんて、ただ虚無としか言えないではないか。
人の死には尊厳があるが、死は「無駄死に」であることも違いない。
自らの意思で国を愛し、正しい政治を皆で育て守ること、
これほど素晴らしいことはない。
ロシアの国民は確かに間違っていたのだ。
そんなことを強く思っている。