年賀状を書かなくなってもう10年近くが経つ。
そのせいで元旦に輪ゴムで止められ、
郵便受けにどさっと来ていた賀状がほとんど来なくなった。
もともと筆まめな私は伝統?に乗っ取って、
元旦に賀状が届くように忙しい師走に頑張っていた。
それも印刷したものではなく自作のイラストで、
文字は墨書きというものだった。
墨も便利な墨汁ではなく、わざわざ硯で擦って筆をとっていた。
その硯も賀状をやめてからは殆ど出番がなくなった。
こうして新年の伝統はわが家からなくなってしまったのである。
それと同時に、あれほど頑張って作っていたお節料理も、
手抜きに手抜きを重ね、
今年はお雑煮の真似事だけに終わった。
ところが、新年に赤坂の日枝神社に参拝したら、
その人波に驚かされた。
この人たちの中で何割ほどの人が賀状を出したり、
正月飾りを飾ったり、お節を作ったりしたのだろうか。
ふとそんなことを思った。
お店には晴れの日にしか食べることができなかったお餅が常時売られて、
人々はお正月料理に匹敵するようなご馳走をしよっちゅう食べ、
つまるところ贅沢に飽きている。
それに加え友人知人たちからの言葉や写真が、
日に何度も掌中に溢れている。
敢えてペンをとって新年の挨拶もなかろう。
子供じみたイラストがスマフォの画面の中で忙し気に踊っている。
これが現実だ。
そんな時代なのに、初詣に繰り出した人々は鳥居に深々と頭を下げ、
指を清め、少し多めの賽銭を投げる。
この私も今年は紙幣を奮発した。
この日本人の初詣の慣習はどうやらなくなりそうもないようだ。
墓じまいなど昔の人たちが驚くようなことがごく普通になって、
こうした習わしのパラダイムが大きく変化したのに、
なぜか実体のない神頼みは消えそうもないようだ。