お正月に初日の出を見たり、初詣でをしたりするのは、
昔からの人々の知恵だと思う。
何事においても目標や区切りがないと人は強く生きられないからだ。
マラソンにゴールがあるように、一年一年にも時という区切りがある。
地球的な目で見ると時など存在しないのだが、
生命と意識のある人間には時の区切りは意味がある。
古来から人々は時に名をつけ大系化してきた。
そんなわけで一年は元旦がスタートの日となる。
日出ずる国にとって太陽は最大の神様だ。
だからこそ、その日の日の出は特別なものとなる。
以前は物好きな友人たちと山に登って、
寒さに震えながらお神酒で乾杯したものだけれど、
今は朝寝坊になって暗いうちから外出などする気が起こらない。
枕元から横になったままで朝日を拝んだり、
昼過ぎてから手を合わせたりしている。
元旦の朝、国営?放送をつけていたら、
アナウンサーが「今、初日の出が出ました」というので、
窓のカーテンを寝たまま開け、近所の家の屋根上にある金色のお日様を拝んだ。
それが今年の初日の出だった。
初詣はドライブがてらに初めての町を訪ね、不動尊に行ってきた。
小さな田舎町なのに人々が通りまで長く列を作っていて、
並ぶのも億劫なのでその古い町を散策することにした。
初詣は家の近くの神社であらためてしよう。
なぜか町歩きしたこの町は正月飾りをしている家が多かった。
入り組んだ町の中にはこんもりと小山になった神社があり、
氏子の家の庭先には結界を示す御幣(ごへい…よりしろ)が刺してある。
新しげな半紙の御幣には何かしら気が漂う。
何の根拠もないものだけれど何かが違うのは、
私自身それほど合理的ではないと言うことだ。
こうした町中に古い神社や由緒ある寺があるのが、
人々の生活感覚を昔の儘に留めているのかも知れない。
思えば正月に飾る鏡餅も神が宿るものだ。
いわば個々の家の小さな御旅所(おたびしょ)である。
昔は部屋ごとに小さな鏡餅を飾り神様を迎えた。
それがだんだんと合理的な暮らしとなり、居間だけに飾るようになってきた。
今年のわが家の鏡餅はというと、風邪が長引いたせいで何もせず、
大晦日に店で買った安売りのパック入り鏡餅がテレビの横に並べられている。
松の木は元旦に散歩して森から頂いてきたもので、
順を無視した滅茶苦茶さである。
でも、どうだろうか。
正月の神様や太陽が何よりも崇拝されていた長い間、
その陰で儀礼や作法という名のもとに、
どれほどの人々が抑圧されていただろう。
こうして陽の部分だけを享受し、
祝うことが許される方がどんなにか幸せなことか。
歴史や習俗には常に「明と暗」がある。
だから、明るく軽くこだわろう。
今年の正月はそんな思いに駆られる。
写真 道の駅で力うどんの車中飯