国土地理院が作っている25000分の1地図は、
日本全国がくまなく網羅されていて、その数は4414枚もある。
以前は登山者は初めての山に登る時はその地図を用意して、
コンパスで進行方向を確認しながら歩いていた。
それが、最近は紙の地図を持つ人は少なく、
ほとんどの場合GPS機能のついたアプリをスマフォに入れて、
登山道を間違っていないか現在地を確認するようになった。
それに地図を売っていた本屋もほとんどなくなってしまった。
私の場合もいつの頃か機器に頼るようになり、
つい地図も持たず、コンパスも利用せず歩くようになった。
そのせいか地図の見方も現在地の確かめ方もすっかり忘れてしまった。
もともとあった体内のコンパスさえ失くしたような気がする。
ところが、今回の山旅では仲間が頻繁に地図を広げ、
自分たちの位置を確かめ、目的地方向を確かめていたのだった。
機器を見てばかりいる私は彼女たちにさんざん注意され、
反省しきりで小さくなってしまった。
以前は言葉の通じない海外に行った時でも、
駅前からコンパスと地図で宿に向かい、
スマフォの地図アプリに頼る若い人たちが驚いていたというのに。
便利さというものにいったん浸りきってしまうと、
人間の持っていた五感も記憶力も、
そして、読解力や注意力さえ欠如していく。
それでは機器の便利さで私たちが得たものは何だろう。
軽量化、時間短縮、簡便さ、つまり、ハードルの低さか。
だが、それらのものは失ったものと本当にイコールで結ばれるのだろうか。
少なくとも私の場合、失ったものが多いような気がしてならない。