新年が来た。
だんだんと季節の習わしなどに適当になってきた私、
最近は初日の出を拝みに出かけることをしなくなった。
以前は誰よりも早起きをして、
真っ暗な中、懐中電灯を照らしつつ見晴らしの良い里山に上り、
居合わせた人たちと新年を祝ったものだった。
東の空に赤い太陽が顔を出し始めると、
なぜか誰彼かが「バンザーイ!」と叫ぶ。
すると、多くの人が同じように手を挙げて、初日の出を祝う。
お酒持参の気の利いた人が周りの人に杯を勧め、
頬を茜色に染めて和気あいあいとなる。
そして、ほろ酔い気分でお屠蘇の待つ家路に向かう。
いつ頃から初日の出を拝むようになったのだろう。
日本という名の通り、この国には太陽信仰が根付いているのだろうか。
もともと農耕民族にとって太陽は神様みたいなものだ。
作物の収穫には太陽と雨がほどよくなければならない。
太陽が百日照り続けたり、雨が長く止まなかったとしたら、
たちどころに人々は飢えてしまう。
雨と太陽は思えば陰と陽だ。
光があれば陰がある。
文明の発達した国はその二つが常にバランスを保ってきたのだ。
かといって、新年に陰の部分である雨を「バンザーイ」と祈ることはない。
お日様は表舞台の主役なのだ。
初日の出はベランダの向こうの屋根から拝んだとしても、
今日は水辺公園を散歩して、初日の出ならぬ初夕日を拝んできた。
夕日も日の出に負けず美しい。
かの日の光は金色に水面を染め西方へと消えていく。
昔の人はその先に浄土があると信じていた。
浄土とは一切の煩悩から解放された世界という。
ただ食べて生きることがそれほど重かったのだろう。
科学が発達した現在、どれほどの人がそんなことを思うだろうか。
夕日を振り返りながら思ったのだった。