駅で友達と合流し、近くの山を歩いてきた。
東京の山は杉が多いけれど、
ちょっとした小尾根には広葉樹の森もいくらか残っている。
そんな穴場を探す彼女たちの場所探しの目は鋭かった。
メインなコースではないので人は余り通らず、
人目のつかない適当な場所を見つけてランチタイムとする。
お昼だというのに、友達のリュックからはビールが出てきた。
駅からバスで来たので、明るいうちに飲まない私も無礼講とする。
コッヘルについでもらって再会を祝って乾杯する。
でも、楽しく喋っていても、終いにはお互い深いため息をついて、
ウクライナの悲劇の話題となる。
連日報道される被災者の泣き叫ぶ声に、もう涙が枯れるほどなのだ。
宣戦布告無しの一方的な戦争に。
こうして野山を散歩する自分たちがまるで奇跡のようだが、
平和ならば当然のことなのだ。
子供の手を引っ張って地下室に逃げ込む必要などない。
時代錯誤の独裁者が、
時代錯誤の方法で他国を支配しようと実行している。
世界は狂った独裁者がちらつかせる核の脅威で、
積極的な手出しはできない。
人間は何と恐ろしい爆弾を作ったものだ。
こうして息をしている間にも子供たちが殺されていく。
目を潰され、足をもがれ、内臓が飛び散り、
辺りは真っ赤な血の海となっていく。
それが、かの地での現実だ。
彼らにとってこの冬枯れた森の光景は、
敵兵の銃口が狙っている危険な森と恐れるかもしれない。