子供の頃、節分の日は必ず豆まきをした。
父親の掛け声とともに家中に豆が散らばって、
それを拾って食べるのはとても楽しかった。
今でも畳に落ちた大豆の様子が脳裏に浮かぶ楽しい思い出だ。
年を取ってからはいつの頃か豆まきをしなくなり、
今では節分の日をニュースで耳にするという程度になった。
私の暮らしもこうして味気ないものになっている。
でも、今年は初詣に行った神社で、
紙に印刷された魔除け?のお札みたいなものを買ったせいで、
節分の日が気になっていた。
というのも、そのお札を説明した巫女さんに、
大みそかの日と節分の日に東北東に向けて置くようにと言われたからだ。
この日は元旦で大みそかは過ぎていたから、
次の節分の日を忘れないようにして、どこかにしまっておいた。
節分というと恵方巻が近年盛んにコンビニなどでも売っている。
それを決まった方向を向いて食べると、
今年も健康で過ごすことができるという関西辺りの習慣だ。
今年の福は東北東にあるらしい。
紙も仏も信じないというのに、やはり生粋の日本人なのか、
こういうものを一旦買ってしまうとつい縁起を担ぐことになる。
この日を逃したらご利益の効き目がないようなそんな気がするのである。
そこで、しまっておいたお札を出そうとしたのに、
どこに置いたか皆目分からなくなった。
この日を逃してはならじと真剣に引き出しを漁ったり、
本棚を探したりした。
朝からずっと探したのに、見つからず、
夕方近くになって鏡の陰に挟まっていたそれに気づいた。
すぐに東北東に向けて立て、ホッとしたのだった。
この間の自分の心理が面白かった。
あんなもの、おみくじと同じく神社の金儲けの一環に過ぎないと、
いつも豪語しているのに。
探せ出せない時の心理は、
ちよっとした強迫観念のに囚われたような感じだった。
そうなんだ、神社仏閣の厄除けやお守り等など、
こんな人間の心理に乗っかって有史?依頼、連綿と続いているのだろう。
信心深くないこの自分が時期を逸するからと焦るなんて。
だから、これまでのように、
私の場合、縁起物やおみくじ等は買わないことが一番だ。
ただし、お賽銭はどんな場所でも必ず入れる。
なぜなら神社仏閣はほとんどが自由に散策できるからだ。
そのお礼は必要だ。