町の裏通りを散歩していたら、
武家屋敷のような建物でお雛様の展示をやっていた。
ちょうど開催したばかりらしく門が開いており、
2、3人のボランティアらしき人たちが座敷で休んでいる。
簡素な日本庭園には赤い毛氈で茶席が設けられていたが、
参観者はたったひとり、私だけだった。
昔の屋敷だからガラス窓もないので、外から部屋全体が見渡せる。
昼なお暗い座敷に艶やかな飾りがひっそりと浮き立っている。
上がりかまちを踏み、畳の部屋に入っていくと、
たくさんの雛人形が飾ってあった。
江戸時代のものは少ないけれど、
明治時代や昭和初期のものが多くあった。
雛祭りは『節句』の一つである。
節句とは年の特別な行事を行う日で、
仕事を休み、神様たちに供え物をする日だ。
だから、もともとは『節供』と書いたようだ。
もちろん、そのご馳走は自分たちも食べる。
この儀式は中国の唐の時代(618~907年)に慣習化され、
日本に伝わってからは江戸時代に一般的になったらしい。
『五節供』とは正月7日、3月3日、5月5日、7月7日、9月9日だけれど、
昔の本によると50近い節供の日があるという。
それだけ区切りがないと、
人々は巡って来る時の流れを思い起こすのが難しかったのだろう。
この日は、3月の第一巳の日で、水辺に行き禊(みそぎ)を行い、
穢れ(けがれ)を払って身体を休ませる日だった。
それが、日本の公家に伝わると、豊かになるにつれ、
余裕のある武家は高価な人形を段にして飾るようになった。
やり方は雛を川に流したり、その祀り方は地方によって今も違う。
私の場合、幼い頃の雛祭りの記憶は小さな雛人形と雛あられだ。
商人の町で育ったので、ひな祭りは各家が派手に祝っていた。
我が家は曽祖父が集めた豆粒台の雛人形しかなく、
子供の私がそれを赤い毛氈に飾った。
ありったけを飾っても小さな掌に乗ってしまうものだった。
残念ながらそれらはどこかになくなってしまい、
一つも残っていない。
だから、近所の男の子たちと連れ立ち、カゴをぶら下げ、
女の子のいる家を回っては雛あられなどのお菓子を貰って回った。
女主人は知らない子にもお菓子を入れてくれた。
この日はそうした子供なりの無礼講の日だった。
そんなことを懐かしく思い出しながら、雛かざりを鑑賞した。
(奈良一刀彫の人形、男女が抱き合っている。雛祭りの時、出したのかは覚えていない)