
クローゼットの掃除をしていたら、母の形見の着物が出てきた。
数年前、兄の家に残されたものを、
彼が何かの折に私に送ってくれたものだ。
クローゼットの奥は菓子の箱やバッグなど、
普段使わないものが何段も折り重なっている。
この母のたとう紙に包まれた羽織も、
一度入れたら二度と開けない他のものと同様に忘れられていた。
今回は暮れの大掃除もできなかったので、
それらを床に広げて、今後もとっておくかどうか考えることにした。
断捨離は日常的に使わないものは、
写真に撮るなどして処分するのがセオリーなのだ。
とはいえ、母が愛用していた着物となると、
そう簡単に捨てることができない。
古びれたたとう紙を開きながら、子供の頃を思い出す。
それらの着物を羽織り、
和風顔をした母の姿が朧げに脳裏に浮かび、
簡単に捨てることはできそうにもなかった。
それでも虫食いの見られた3枚は処分することにして、
聞き覚えのある着物屋さんの名入りのたとう紙も思い切って捨て、
羽織を三枚だけ残しクローゼットにかけた。
数年ぶりに羽織が息をした感じである。
モノを捨てることの難しさは、
そのモノにまつわる物語があるからに他ならない。
思いだしたくない物語を思い出してしまうモノは、
どんなに高価であっても捨てるに違いない。
モノさえなければ忘れることができる思い出も多い。

ところが、こうした肉親にまつわる思い出は、
なぜか年を取るごとに鮮明になってくる。
もしかしたら、私が母の年に近づいているからなのか。
いつかはその世界に行くのは生きとし生けるもの宿命である。
でも、その時は何も持っていくことはできない。
走馬灯のように脳裏に浮かぶ個々の物語だけが道連れなのである。
さて、私はまだこちらの人間だ。
母の羽織は洋服掛けにかけたのだから、
これから毎日目にすることになる。
その度に、私は母のことを思い出して、
今日も大事に生きなければと思うに違いない。