今日は午後から雨予報だったのに日も差していた。
久しぶりに趣味のクラブが開いて隣町の公的施設に行ってきた。
ここも使い勝手が面倒になり、事前に体温を測ったり、
使用後はいちいちアルコールで椅子やテーブルを消毒しなければならなかった。
今はまだどの施設も制約が多く、職員は感染にピリピリしている。
このコロナ禍の最中に、去年の台風のような大雨が降り、
家が浸水したり川が氾濫したりしたら、
一体この国はどうなるのだろうと心配していたら、
遠く九州の西の方の市がその災いに見舞われた。
台風でもなく梅雨の間の雨なのに、
異常な帯状の雨雲が同じ地域を襲い続け、被害は深刻になっている。
どうやらその怪しい雲の帯はまだ続くものと思われる。
車がひっくり返ったり、橋が落ちたりなどの、
テレビに写される衝撃的なシーンはまるでサバイバル映画である。
そこに映し出される家々には、人々が住み、いくつもの物語があるのだ。
コロナ禍での避難生活、家の修復など、その大変さを想像すると、
遠くに住む私は地団駄踏むしかない。
こんな光景を頻繁に見るようになったのは、津波の時からのような気がする。
津波の後は大雨の被害をたびたび目にするようになった。
3.11の実況中継は、海の水が陸を侵して車を呑み込んでいく様子が流されていた。
その恐怖は激震を経験した直後だったため身をもって感じられた。
そして、その後の原発爆発の怖さも戦慄を禁じえなかった。
あの頃から科学者は天災を「想定外」のために起こったと説明するようになった。
その想定外は降雨量も然りで、
最近は毎年どころか「50年100年」に一度という表現の雨が何度もある。
「年」とは人間が作った単位である。
自然界には「年」という区切りの時は存在せず、
すべては自然界の想定内で出来事が起こっている。
自然は人のことなど構ってはいない。
温暖化で永久凍土が溶け出して被害が出ている時代だ。
きっと何でもありの世界になったのだ。
人間にとって天変地異の時代が来たんだと思ってならない。
だから、私たちは今までの定説を捨てなければいけないと思う。