庭木を剪定してから2週間ほどが経ち、
野ざらしにしていた枝木や葉っぱがやっと乾燥してきた。
見た目には悪いけれど、
私はいつも乾燥させてから処分することにしている。
町のごみ収集の注意書きに剪定ゴミや草刈りゴミは、
「生のまま捨てず、乾燥させてから出すように」と書かれてあり、それは、ルールとして納得できるからである。
濡れた草木や生のものを燃やすには、
相当のエネルギーが必要だということは子供にもわかる。
その代償はいつか市民がすることになる。
ちなみに私の住む町はひと月に100キロまで無料で処分できる。
なのに、ゴミ収集場所にはビニール袋に入れられた大量の草や、
裸のままの木々が山と積まれていることがよくある。
その人たちは自分の家がきれいなら、
他のことはどうでも良いのだろう。
明日はどうやら天気が悪くなるというので、
今朝は車の後部にシートを敷いて、
山となっている刈り込みゴミを積んだ。
天井に届くまで入れたけれど、全部は入りきれなかった。
摘み終わると、近くのゴミ処理センターに行ってきた。
入り口で丸い鉄板の上に乗って、車の総重量を図ってもらい、
燃えるごみの場所まで行った。
係の人は時節柄か普通のマスクではなく、
防毒マスクのようなものを着けていた。
私が車を降りるとマスクを外し、投げるのを手伝ってくれた。
こういう人たちのことや看護師や医師など感染の危険が大きい職業の人たちのことを、
『エッシェンシャルワーカー』と呼ぶらしいが、
そう呼ばれてどんな気持ちになるんだろう。
彼らのおかげで私たちが安全に暮らしていることに、
あらためて感謝した。
巨大な地下の奥には朝に集められたゴミ袋が見えた。
一日でどのぐらいあるのだろうかとふと思う。
今回の我が家のゴミは20キロだった。
一昔前なら庭の木々は庭で燃やし、
その灰は畑の肥料となって野菜を育て、わが身に戻ってきた。
宇宙の決まりに乗っ取った自然な循環だった。
今は枯れ木は重油で焼かれる。
人間の欲望は自然な循環を断ち切った。
何とも矛盾した文明社会である。
そう思うと今回のコロナ禍は人間に対する警鐘どころではなく、
鉄槌であるかのようでもある。