昨日の続きが今日で、今日の続きが明日だなんて、
本当は奇跡だったのかもしれない。
そんなことを思うほど今回のコロナウイルスの出来事は、
明日のことは分からないとつくづく実感させられた。
去年の台風もそうだったけれど、今回ははるかに桁が違う。
世界中の人が得体のしれないウイルスに対し、
ただうろたえてばかりいる。
恐怖は正体が分かっているけれど、
正体が知れないので不安に陥って行かざるを得ない。
市場経済はリーマンシヨック以来の下げ幅を更新しているし、
何より今までの普通の暮らしがぷっつり途切れてしまった。
見通しも一寸先は闇みたいになって、
世界中がブラックホールに入り込んでしまったように思われる。
子供は学校にも行けず、大人も行動を制限されてきた。
今までがどれだけ幸せな日々だったのか思い知らされている。
一体いつまでこんな宙ぶらりんな日々が続くのだろうか。
これほど世界が震撼しているのは、
やはり、人間が得体知らずに襲う「死」を極端に恐れるからだろう。
毎日発表される「死」の報道を聞くと、
「死」は身近なものとなり、防ぎようがないから恐れの対象となる。
今、健康な自分や周囲の愛する者に対し、
「死」がいきなり身近に感じられると人は恐れを抱く。
死神が自分のドアを叩くような気がして来て恐くなる。
人は必ず死ぬのに不思議なものだ。
人間はコンピュータという高度な人工知能を作り、
火星までも往復できるようになったし、
無菌の世界すら目指していた。
そもそもウイルスのいない世界なんてありえないのに。
そこで、ふと思い出したのは聖書のヨハネの黙示録第六章、
第四の騎士のところだ。
「われ見しに視よ、蒼ざめた馬あり、これに乗るものの名を死と言い、
黄泉これに従う。彼らは…」
これは人の傲慢さに対する世界の反逆で、
4分の一が死ぬという予言である。
予言など信じないし、もともとクリスチャンでもないけれど、
こんな時世だから何だか気になってしまう。
(写真 サグラダファミリア内部 ガウディは何を祈るだろうか)