今日は賢治の生まれた町で育った人と、
彼についていろいろと話しをする機会に恵まれた。
岩手出身の彼の独特な世界は、
今の時代でも魅力が尽きず、語り合ったら際限がない。
彼の作品は子供向けの童話のようだけれど、
実は大人のために書かれているから、
いつ読み直しても考えさせられてしまい、
本当のテーマは何かと問わなくてはならない。
その人は私が持っている賢治全一冊の本も持っていて、
地元の人ならともかくと、たいそう喜んでくれた。
私は以前から宮澤賢治は世界的な存在の文学者だと思っている。
次々と溢れる宝石のような言葉は、
ネイティブな言語をも超越しているようだ。
彼の育った岩手の訛りで聞いても、
世界が広がるのを感じる。
その人と盛り上がって話している時、
どうしても思い出したい文があったのに、
何としても思い出せず実に残念だった。
以前なら初めの塊はスラスラと暗記してたのに。
そういえば最近、以前に買った本棚の本は読みなおすことなく、
彼の本も棚にしまったままで埃だらけになっている。
帰宅してあらためて本棚から賢治の本を探して開き、
また覚えるために書き写すことにした。
下記がそうだ。
わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといっしょに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(心象スケッチ「春と修羅」の冒頭、あと48行魅惑的な文が続くが省略)
彼が大正1年に書いたもの。
下線を引いてみて、彼がいかにも理科系的思考で、
自然と自分を表現したかったのか今回いっそう理解できた。
でも、有機物の自分は因果でしか自然とつながれないと、
世界の不条理も因果と言う非科学的言葉で表現しているのにあらためて驚いた!
そう思うと、ヒデリノトキハナミダヲナガシや
サムサノナツハオロオロアルキの「雨にも負けず」の文も、
自然の脅威を逃れようのない因果で捉えているようだ。
あれほど理科系の人が数値では解決できないことを知っていただなんて。
やはり、面白い!
また読み直そうと思った。
(写真の本は第三書館「ザ・賢治」1988年)
後日の補足 この日記を読み直し、大きな間違いに気づく。「因果」とは科学の考えそのものだった。原因があって結果があるという見方で、地球の成り立ちや生命の秘密を探るのが科学だった。 彼の作品を分析するのは不可能でした。