今日は人生初めての日だったなんて

好奇心がある限り心を文字で表すことは大切です。日記を書きます。

one driveは要らない

私はメモや日記代わりにスマフォで毎日何枚も写真を撮る。
だから、すぐにスマフォの容量がいっぱいになってしまう。
定期的にパソコンのmy pictureに移動し、整理すれば良いのだけれど、
なかなかそうもいかない。

 

ウインドウズのパソコンには雲の形をしたone driveというものがついていて、
自分のパソコンの記憶装置にではなく、クラウド(ネット上の記憶室)で管理される。

間違って削除しても30日間保存してくれ、

どこからでも写真やドキュメントにアクセスできる。
その上、セキュリティもしっかりしているらしく、安心して使えるという。


そのone drive、私には大きなお世話という感じで邪魔で仕方がない。
今時、スマフォとパソコンを同期しないのは、
時代に逆行しているのかもしれない。
同期していればスマフォで撮った写真がパソコンからもアクセスできる。
でも、どうもそれが肌に合わないのだ。

 

写真をmy pictureに保存するという今までの行為と違い、
one driveのせいで「容量オーバーです」などと警告してくる。
写真に赤い×印がついているのはそのためなのだろう。

 

one driveには5ギガというストレージの制限があって、
それより多く保存しようとすると有料になるらしい。
仕事関係でオフィスなどのファイルを共有して会議するのならいざ知らず、
個人用ならば以前のようにusbなどに記憶させた方がピンとくるではないか。

 

でも、記憶容量にも制限があるし、形あるモノは紛失しやすい。
壊れてしまうという心配もあり、大事なものは幾つかバックアップも必要だ。
このアナログなやり方だとその内整理がつかなくなってしまい、
one driveoの存在は確かに悩ましい。

 

でも、OSが変わるごとに、いや、変わらなくても、

Windowsのサービスが変わる恐れがある。
だから、とりあえず色々調べてやってみることにした。

 

画面下のタスクバーにある青い雲マークのone driveアイコンをクリックして、
設定画面を開き、デフォルトの状態から変えるのだ。
このやり方はネットに詳しく載っていた。

 

windowsにサインインした時にセットアップ時にone driveを自動的に開始する」
というチェックボックスを探し出し、それを外した。
すると、タスクバーからアイコンが消えホッとする。

 

でも、エクスプローラーにあるmy pictureには写真はなく、
相変わらずone driveからmy pictureを開かなければならない。

私は相当古い人間なのか理解不能で何かすっきりしない。

 

 

コルクは持続可能な天然素材だった

スーパーで2割引きのワインを買ってきた。
ワインは好きだけれど、日本酒のようには美味しさの差が分からない。
日本酒なら大体が値段で判断できる。

 

私が手を出すワインはせいぜい高くて1000円台。
中でもコスパの良いチリ産を買ってしまう。
ワゴンに入っていたそれはスペイン産だった。
スペイン産も割と値段の割には得をすることがある。

 

その赤ワインは全体におしゃれな金属製の網がしてあったので、
現地では上級のものかもしれない。
今度の山旅で仲間と飲もう。
だから、ペットボトルに入れ替えるために栓を開けにかかった。

 

ところが、コルクが何としても抜けない。
以前にも何度かこんなことがあった。
30分近く意地になって奮闘したが駄目だった。

 

そこで、引いても駄目なら押してみることにした。
以前も何度か経験がある。
コルクを細い刃でほじくっていき、
少し減ったところで棒を置き、金づちで叩いてワインの中に落とすのだ。

 

2015年のワインだから7年間も蓋がされたままで、
コルクが瓶に張り付いてしまったのだろう。
それにしてもコルクを瓶の栓にするとは先人の知恵は凄い。
コルクはめでたくワインの海へ落ちた。

 

コナラ族の木の樹皮であるコルクは紀元前から使われていたという。
ワインの栓のみならず床やその他の建築資材でもある。
地中海沿岸のコルクの木は年々減っているようだ。
以前スペインのコルク並木を通った時、そう説明された記憶がある。

 

最近はコルクに似せたプラスティック製の合成コルクが増えている。
天然木と比べると性能は良いけれど、持続可能なものではない。

何だか現代社会の消費文化を象徴しているようだ。


今回の奮闘で気に入っていた栓抜きを壊してしまったけれど、
天然素材のコルクを恨む気はない。
早速グラスに注いで味見をした。

 

良いワイン特有の味がしてなかなかのものだった。

諦めずに苦労した甲斐があった。

2割引きになっていた理由は、

この奮闘を強いるコルクの劣化の問題のためだったのかもしれない。

 

鈍足者には標準タイムの倍はかかる

 

いよいよ登山の日である。

昨日、一人の男性が下山してきたので山の状況を尋ねていた。
歩き初めに続く沢の横断は6回ほどあり、
どうにか滑らないで渡ることができたらしい。
友人は渡渉のことだけ気にしていたので安心したようだ。

 

その人は往復6時間ほどで登ってきたらしい。
これは標準タイムなのだと思うが、
体力がないため足の遅い私は2時間余計にかかると思う。


つるべ落としのこの頃だから心してかからなければ。
ちなみに同行の友人の足はとても速く、
いつも私に合わせてくれるので申し訳なく思う。

 

荒れ果てた鉱山跡の道をジグザグに渡渉しながら山に入っていく。
沢沿いの道を色づいた黄色く広葉樹が囲み、白い水しぶきに癒される。
この癒しの風景こそが私たちを強くいざなう自然の魅力だ。

今年はなぜか高山で遭難が多く発生している。
滑落して心肺停止となり命を落としている。
コロナのせいで登山をするようになった人が多くなったせいなのか。
ネット動画では危険な山を簡単そうに登っている人も多く、
自分でも大丈夫と思ってしまうせいもあるのかもしれない。

だからなのか、珍しく登山届を記入してポストに入れてきた。

 

私はこうした普通の登山を最近はしてなし、
高所恐怖症だから切れ落ちた場所がないか内心穏やかではなかった。
危険個所には補助ロープはあるらしいが、躓いて落ちたらどうしよう。
心配性な私はそんなことばかり考えていた。

 

沢から離れると尾根に向かって急登が続いた。
ロープにつかまり滑らないように濡れた斜面を登っていく。
尾根からは穏やかな山道となり、木々の色づきが濃くなった。
はるか遠くに目的の山が見え、「えっ、あそこ?」とため息をつく。

 

頂上に近くなるとロープばかりの急峻な道になった。
足元が滑りやすく慎重に登っていく。
山はとにかくその一歩が大事で、一歩進めば必ず頂上に至る。

 

そんなふうに自分に言い聞かせ、やがて着いた山頂。
何と5時間もかかっていた。
健脚の友人ならもう下山している時間だ。

 

秋晴れの青い空には嘘のように雲一つない。
大河の一滴ここにあり」という大きな石碑がある。
先行の男性二人組と360度に広がる山々の名前を言い合った。
こんな時、日本は山国だなとつくづく思う。

 

山女の友人はここから見える山々のほとんどのピークを踏破している。
彼女が好きなのは私が聞いたことのない山の名ばかりだ。
私は指折り数えてみると有名な山には登っているが、
多くの山並みを形作るマイナーな山には行ったことがない。

 

 

山頂でご飯を食べると笹に覆われた三角点を探しに行った。
10分ほど藪漕ぎをして戻り、急いで下山にかかった。
下りは上りより危険なので慎重に歩くため、そんなに速くは歩けない。

 

結局、車に戻ったのは日が落ちてからだった。
合計9時間はかかってしまい、健脚の友に申し訳なかった。
それにしても体力の個人差には驚いてしまう。
私の鈍足、どうにかならないものか。

 

 

 

 

 

車中泊で遠くの山に

たまには遠くの山を歩こうと会津方面へ車を走らせた。

今年は身体の不調に度々襲われ、

夏には指にガラスが入ったせいで未だに破片が指の中に残り、

治療方法がなくとても不愉快な日々が続いている。

 

それで今年は初めての山が五本の指にも満たない。

だから、今日は友人が誘ってくれたので遠くの山に行くことを決めた。

ひとりだけではないから遠くに行くチャンスでもあった。

 

それで、昨日からずっと車中泊の用意をしていた。

もともと私の車はそのために買ったもので、

普通に二人は寝ることができる。

 

でも、荷物の置き場は工夫しなければならない。

前泊と登山後の泊りで二日登山口で寝ることになるから荷物も多い。

そこで、以前長い板を運ぶときに用意したコンパネみたいなものを、

フロントに橋のようにして乗せ友人のベッドにこしらえた。

身体の小さい私は下に横になることにした。

 

前座席の隙間に調理道具の入った買い物籠を置く。

ゴチャゴチャしないようにスーツケース大小をセットし、

二段に分かれた荷室の上には二人のリュックを起き、

山用のシュラフだけでは心もとないかせ、

下段には毛布やお布団を詰め込んだ。

 

 

懐かしの会津西街道を通り、5時間少しかかって目的の駐車場に着く。

まずは外に布を広げ、全ての荷物を出す。

そして、コンパネベッドを作り上げ、食事の用意にかかった。

誰もいない山の中、何て楽しいんだろう。

 

天気が良く風もなかったので、

気分よくアウトドア夕食に浸ることができた。

登山にはご飯が良いので明日の朝昼のお米も炊いておく。

 

さて、どんな山だろうか。

ちょっと不安もあるが楽しみでもある。

 

 

キーボードを認識しなくなったパソコン

 

この春に買った10インチのタブレット大の小さなコンピュータの話。

私は動画が好きで寝る前には必ず何かを流している。

テレビと違いお仕着せの番組ではなく、自分好みのものが見られるためだ。

 

そんな時にとても便利なタブレットは、

充電コードを入れる時に無理をするのかその場所が壊れがちで、

この5年ほどで毎年のように買い替えている。

安物買いのせいかもしれないが。

 

今使っているタブレットはすぐにバッテリーがなくなってしまう。

そこでタブレット替わりにと思い、小さなパソコンにしてみたのだった。

これはタブレットと同じぐらいの値段で、

キーボードとディスプレイが簡単に切り離せるという。

また外出用のパソコンとして使えるし、

これなら一石二鳥で便利だと思ったからだ。

 

ところが、タップもスワイプもできるとはいえパソコンはパソコンで、

電源を切る時はシャットダウンという面倒なことをしなければならない。

それが、ほとんど寝ている状態では厄介だった。

だから、先日は映画を流したまま寝入ってしまった。

これは初めてのことだった。

 

そのせいなのかこの時以来、キーボードをつけてもキーが反応しなくなった。

当然ながらタッチ部分に触れても矢印アイコンは出てこない。

パソコンは立ち上げ時にはパスワードを入れなければならず、

画面にキーボードを表示させないと動かすことができないからイライラが高じた。

検索に文章を入れることが多い私はなおさらだった。

 

そこで他のパソコンでネット検索して、

古いデスクトップで使っていたキーボードを差し込んでみた。

すると、ちゃんとキーボードは使えたので、

このミニパソコンのキーボードが壊れたのは確かだった。

 

これはディスプレイに磁石でくっつくようになっていて、

何となく心もとない仕組みに感じていた。

日本製だというのに値段が安いのも引っかかっていたし。

 

まだ保証期間中なのでメーカーに連絡してみよう。

相談に乗ってくれるだろうか。

 

 

 

 

真っ赤な炎は体と心を癒す

 

夕方少し冷えてきたから今季初めて薪ストーブに火を入れた。

山の中にあるこの家は平地のそれよりも冷えるから、

晴れた日の翌朝は放射冷却で一層寒くなる。

だけど、夜の熾火はそんな朝でも柔らかなぬくもりを残してくれる。

 

夏の間に剪定してとっておいた庭の木々の枯葉や枝の下に、

ほんの少し杉の葉を火種にして入れるだけで、

ストーブのガラス窓の中は激しく波打つ炎で真っ赤に染められる。

 

その炎の揺らめく様子はずっと眺めていても飽きないほどだ。

何よりこの赤い色こそが人間のエネルギーの源に感じる。

人間の起源すら想像してしまう。

 

最近の人々はこの炎を見るためにわざわざ遠くのキャンプ地まで行く。

昔なら土間があって人々は常時、この炎と向き合っていた。

残念ながら文明が進むにつれて便利さと安全のため、

直火は人々の暮らしから遠ざけられ、

今やキャンプ場でしか見られないという不思議な時代になった。

 

はぜる火を見ているととても心が落ち着く。

それはきっと私たちの祖先から受け継がれてきた何かが、

あるべきところに収まっているからかもしれない。

 

この山間にある家に来るのは月に1,2度程度だが、

冬になるとこの炎を見つめることができるのが嬉しい。

 

ムカゴがないより、友達がいないこと

今日は昼過ぎに隣町のロックヒルに行ってきた。

去年の今頃、ここでポケット一杯のムカゴを取ったので、

そのことが気になっていたのだった。

 

去年は今時だったのか忘れてしまったけれど、

友人と二人でかなりのムカゴを探し、

2軒分のムカゴご飯ができるほど採れたのだった。

 

さて、今年はどうかと一人で行ってはみたものの、

時期が遅かったのかさっぱり採れず、

数えるほどしか見つけることができなかった。

 

もしかしたら、昨日台風並みの風が吹いたから、

蔓にしがみついていたムカゴが、

振り落とされてしまったのかもしれない。

 

こうした季節のものはどうしても一度は味わいたい。

春はフキノトウやサンショウにワラビ、それにウドやタラの芽など。

秋はキノコやムカゴなど。

この国は四季に恵まれ山の幸が豊富だ。

 

それらは決してスーパーで買うのではなく、

自分の足で歩き自分の目で見つける。

できれば庭や畑のものではなく、

野生から生まれた本物を味わいたい。

 

そんな思いでいつものように目を晒して歩いたけれど、

淋しすぎる収量だった。

これでは我が家のムカゴご飯はお預けだ。

 

その上、何より違うのは、

いつもムカゴ採りを一緒にしていた仲良しの友達がいない。

何となく心が満たされない散歩だったのは、

そのことが一番大きいような気がする。