今日は人生初めての日だったなんて

好奇心がある限り心を文字で表すことは大切です。日記を書きます。

触覚と聴覚の歯科治療

しばらく通っていた歯科医院への通院が終わった。

今回は差し歯が取れたので左右の歯にブリッジする治療だった。

その治療が終了して、今日は仕上げのクリーニングという。

 

この歯科医院では歯のクリーニングは年に2回、

定期的にやるように葉書の案内が来る。

今回は差し歯の治療のついでにやってもらうことになった。

 

思い起こすと、虫歯のなかった私は、

その自信過剰が災いして食後の歯磨きを怠り、

そのため歯茎が弱り、これまで何度歯医者に通ったことか。

お腹の痛みなら我慢はできても、

歯の痛みは医者嫌いの私でさえ、すぐに歯医者に連絡する。

 

私の通う歯医医院はピカピカに明るく、

真っ白な清潔感漂う治療室から眺める南洋風のヤシの葉の風景が、

まるでホテルのように感じられる。

 

けれど、治療はリクライニングシートに横たわり、

ずっと目をつぶって我慢しなければならない。

だから、歯に当たる刺激的な感触と音だけが伝わり、

何をされているのか分からず、

頭の中は電動工具のイメージばかりで恐ろしくなる。

 

歯のクリーニングは医師ではなく歯科技工士がやっている。

作業の一部始終を丁寧に説明しながら口の中をいじっているが、

こちらはドリルが歯茎に当たらないか不安でならない。

私は電動ドリルや金づちなどを想像しているけれど、

そもそも歯科の工具はどんなものだろうか。

 

治療の様子を自分の目で確かめたいけれど、

患者が目を開けていたら施術する方はとてもやり辛いだろう。

隣の治療室で子供が泣きそうになっているが、

あの子はきっと目を開けたに違いない。

 

やはり、治療は見えない方が良い。

 

 

竹の可能性を見た

 

道を探していたら狭い行き止まりに入ってしまったので、

車を降りてたまたまそこにいた男性に道を尋ねた。

その人は道の説明をすると、

私が車をバックするのを後ろで声をかけ乍ら誘導してくれた。

ハンドル操作を間違えると、

水路に落ちそうな場所だったのでとても助かった。

 

その辺りには長い竹や切り落としたらしい竹が山積みになっていて、

彼はここで竹を使った何かの工事をしているようだった。

ちょうどアジアのどこかの国で、

若い男女が竹で複雑な建物を作っている動画を見て、

竹の可能性にひどく感心したばかりだった私は、

車を止めたついでに好奇心から作業現場を見せてもらうことにした。

 

そこは、東京の隅っこの田舎町で家々よりも山が多いところだ。

山の入り口の階段を10段ほど上ると森に囲まれた広場があって、

そこに大きな足場のようなものが複雑に作られていた。

 

てっきり地域の祭りが大々的に行われるのだと思ったら、

彼の説明によるとどうやらお芝居のためのものらしい。

見上げるほどに高い竹の足場はその舞台なのだった。

 

長い竹はパイプの足場のように組まれ、それらは針金で繋がれている。

青々とした竹は奇特家らしいここの山の持ち主から提供されたという。

彼等はあちこちを巡る劇団で今回はここが舞台で、

3か月もかかって準備を続けてきたと言った。

 

それにしても竹で組まれた舞台はとても迫力がある。

頂いたチラシには興味深い文学的出し物が印刷されてある。

森の中で松明の灯りのもとに行われるお芝居、

竹で組まれた舞台といい、芝居の題目といい、心惹かれる。

 

こんなふうに自然と一体化した舞台は、

お芝居が生まれた太古の昔を想い起こさせる。

その頃の建築資材としたら竹は身近なものだったろう。

終わった後は燃料にもなるし、何より自然に帰る。

 

公演期間中は天気に恵まれ、

多くの観客が来てくれば良いなあと心から思った。

 

 

 

山栗の道を歩く

一日暇ができたので友達に案内してもらって奥多摩の山を歩いてきた。

突然の前日の誘いなのに気持ちよく了解してくれたのが嬉しかった。

彼女はもともとクライマーだし、

人が歩かないマイナーなルートが好きだ。

だから、こうしたポピュラーな小さな山でも地図に載っていない尾根を辿って、

主尾根のピークに向かうという。

 

この辺りは東京都に位置してバスも通っているけれど、かなりの辺境の地だ。

空き地に車を止め、神社の裏手から急峻な杉林の道を登り、

2時間近くかけて道のはっきりとした主屋根に着いた。

 



どんよりとした厚い雲に覆われた空は、何とか下山までは持ちそうな気がするが、

今にも雨粒が落ちてきそうな気もする。

今日の山支度はリュックと靴以外は友人が持ってきてくれた。

 

見晴らしの良い東屋に着くとお赤飯と熱いラーメンを食べた。

そこには、お弁当を広げ小声で話している二人の女性がいただけで、

あたりはひっそりとしていた。

眼下に広がる町並みはあいにくの空でぼんやりとしている。

それでも、山の中の食事は何倍も美味しい。

 

ここまでくる間、山栗が道に転がっていて、

ずっと採りながら歩いていた。

杉だらけの山なのに道は茶色いイガで埋まっているところさえある。

 

そこからも栗の道は続き、中身を取り出していると、

だんだんと時間を食ってしまう。

栗拾いはやめて、先を急ぐと壊れかけた山小屋地点に着いた。

 

休んで地図を見ていると何組かのハイカーが行き来した。

そこから人気の山へは往復1時間半程度で行けそうだ。

その山は10数年前、別の登山口から友人に誘われて登ったことがある。

 

もう一度その懐かしい山頂を踏みたかったけれど、

持病の足指痛と左の腰から気になる痛みも出ているし、

暗くなっては大変だ。

秋はつるべ落としで気が付くと真っ暗になる。

時計はもう2時、山頂ピストンはやめたほうが良い。

 

下山はヘアピンを描くように沢を下り滝のある下山地に着く。

どんな滝だろうかと想像しながら、

またも栗のコロコロと落ちている沢道を下った。

 

滝見台の橋で写真を撮っていると、

今度は栗拾いだけに来ようと友達が言うので、私もうなづいた。

多分それならリュックいっぱいの栗が拾えるだろう。

 

 

 

空気圧器で初めて入れたタイヤの空気

遠出の際に給油をしているガソリンスタンでのこと、

家を出るとき、タイヤの空気が少なく明らかにへこんでいる感じがあり、

心配だったのでセルフで給油した後、事務所に駆け込んだ。

 

そこは国道沿いにあるセルフスタンドで敷地も狭く、

洗車スペースもやっとぐらいだ。

でも、対人のスタンドと違い値段がかなり安く、

そのためサービスで空気圧を見てくれるかどうか分からなかった。

 

事務所には中年の男性とレジの女性がいて、

「ここはセルフだから空気圧もセルフなんですよ」と男性が言った。

やり方が分からなかったので私はとても困った顔をした。

 

すると、その人は外へ出て、

空気圧の見方と空気の入れ方、抜き方を教えるから、

私に車を寄せるように言って誘導してくれた。

スタンドの奥に丸いガスタンクみたいなものがあって、

それが空気圧の機械だという。

 

彼は私の車のドアを開け、

その内側にタイヤの種類と値が貼ってあると教えてくれた。

私の車の空気圧は2.2ということだった。

 

彼はタイヤのバルブ蓋を外し、

その丸い空気圧機械のホースをちょうど自転車の空気を入れるようにして、

数値を見ながらやってくれた。

 

2.2になるまで2本目、3本目と丁寧に見本を見せてくれ、

最後の4本目を私にするように言った。

見よう見まねで正常値まで空気を入れると、

タイヤは気持ちよく膨らんでいった。

今までかなり空気が少なかったようだ。

 

作業が終わると、彼は空気圧の丸い機械は常に空気を入れるように、

大元の機械からホースでつながれていると、その仕組みを教えてくれた。

そして、「これからいつでもセルフで点検していいですよ。もう覚えたでしょうから」とにこやかに言った。

 

本来は自分でやるべき作業なのに、

手が空いていたのかどうかは分からないけれど、

親切にやってくれたお店の人。

 

何度も何度も頭を下げ、

この店をずっと利用してきてよかったとつくづく思った。

 

食事禁止で矛盾だらけのコロナ対応

今日は趣味の会で隣町の公的な施設を利用した。

コロナが始まってからはずっと取りやめだったのでそれ以来だった。

思えば3年ぶりとなる。

 

その広い敷地にでんと鎮座する二つの建物には図書室や食事室、

子供室などがあって、休み時間にはとても重宝していた。

何か大きなイベントでもない限り、

地方の町のこうした巨大施設には人が溢れることはないようだ。

受付には常勤らしき人がかなりいるけれど、

この日も利用者は私たちだけでとても少なかった。

 

お昼になったので、今までのようにお弁当を持って休憩室に行った。

この辺りは住宅地でレストランなどなく、

1ブロック先にあったコンビニもいつのまにか閉店している。

だから、今日はみんなお弁当を作ってやってきた。

 

休憩室でお弁当を広げようとしたら、

館長らしき人がそこでの飲食利用は禁止のままになっていると言う。

だから、みんなで外に出て食事することにしたけれど、

芝生もベンチも雨上がりのために湿っていた。

 

仕方なく比較的乾いている庭石に座ったりしてお弁当を食べる。

コロナの2年ほどは公的な広い公園のベンチには、

使用禁止のテープが貼られていたっけ。

人など少ししか通らない野外の施設の多くに、

へんてこな貼り紙がべたべたと溢れていたものだ。

一体あれは何の役に立ったんだろう。

 

今はその頃と比べると比較できないほどの陽性者数である。

でも、すっかり人々は慣れ切っているし、マスクもし忘れたりする。

ワクチンを打ち続けても効かないことも多いし、

一体どう対処すればよいのだろう。

 

世間ではまたお得な旅割が始まるようだが、

ワクチン3回接種者のみがご利益を受けられるという差別がある。

公的施設で食事ができないのなら旅などもってのほかではなかろうか。

行政も混乱しているようだ。

 

 

 

 

 

ウインドウズ11のウジェットを消して

新しいノートを買ったら当然ながら、今一番新しいウインドウズ11だった。
春に買った外出用のモバイルパソコンは10が入っていたけれど、
購入後、まっさらな状態で最初に自分で11をインストールした。

なぜなら10も同じようにやがてウインドウズがフォローをやめるからである。

 

パソコンのバージョンが上がると、いつも新しい機能が増えて面食らう。
ウインドウズ11は情報が突然ポップアップされることがある。

10の時はお天気マークはあったけど、

勝手にニュースなどが出るのはなかったと思う。

これはウジェットと呼ぶそうだ。


誰がそんなもの必要なのだろうか。
ウジェットは左側下に居住地のお天気を示すアイコンがあって、
マウスやマウスパッドに指がちょっとでも触れただけで、
画面の半分ほどの領域にそれらがポンと出てしまう。
これを消すにはどうしたらよいのか。

 

ネットで検索してみたら、
時々見ているユーチューバーがそのことを丁寧に説明していた。
やはり、その人もウジェットと呼ばれるその新機能が好きではないと言っている。

 

解説の通りに下のタスクバーを右クリックすると、
タスクバーの設定があり、そこで表示・非表示を選ぶことができる。
早速私はタスクバーの中にあるウジェットとチャットのオフボタンを押して消した。

チャットなど人工頭脳が相手なのだし、業者への質問以外には利用しない。

 

パソコンはとても便利で、大きな図書館以上の知識が詰め込まれている。
ただ次々と基本のソフトがアップされていくので使う側は不便を強いられる。
このウジェットだって一体どのぐらいの人が便利と感じるのだろうか。

開発する側の自己満足のような気がする。

 

人間の技術開発は進歩発展が普通とはいえ、
時には止まることも必要だと思う。
普段使いの家電も不要なセンサーなどが入っていて、やたらと機能が多い。

そのためちょっと不都合があっただけで買いなおさなければならなくなった。
それらももっと単純に消費者の気持ちになれないものだろうか。

ウジェットを消しながらそんなことを考えてしまった。
simple is best 、それが一番だ。

 

都会はお金持ちしか買い物しないのか?

渋谷のクリニックに行ってきた。

都心を電車で通るのは実にスペインからの帰路以来である。

コロナ直前の日だから約3年近く経つ。

 

ラッシュを避けたのに電車は混んでいて、

渋谷までずっと立ちっぱなしだった。

医者に行ったわけは二か月も前に刺さったガラスの痛みが取れず、

専門医の話を聞こうと思ったからである。

 

診察は午前中で終わったので、久しぶり渋谷の街を歩くことにした。

あいにく天気は雨で気温も低かった。

傘を差しても風もあって服が濡れ、体が冷たくなるほどだった。

 

駅の工事ですっかり変わってしまった渋谷の街、

以前の記憶で歩いても思い出すビルも減っている。

仕方なくミーハー気分で、

最近この町のランドマークの一つになったヒカリエに行くことにした。

 

都会のこうしたビルにあるお店はとても高級な店ばかりである。

ブランドのバッグや服など、ほとんど私には用のない品ばかりだ。

それでも、少し気になるものを見つけても、値段があまりに高すぎる。

 

ここで買い物をする人たちってみんなお金持ちなのだろうか。

いつもこういうところに来るとその点が気になってしまう。

都会はお金持ちしか買い物ができないのかと。

 

ヒカリエを出ると雨の中をふらふらと歩いて、

今度は凝りもせず109に入ってみた。

ここも同じようにブランドばかりだ。

若い人はこんな店でファッションを決めるのだろうか?

 

すぐに外へ出てまたふらりと雨に濡れながらハチ公まで歩く。

ハチ公前では雨の中でも修学旅行の生徒らしい子供たちが、

賑やかにスマフォで記念写真を撮っていた。

その姿と変わらないハチの顔を見ると、やっと渋谷にいることを実感した。

 



やっぱ渋谷はハチ公だわとホッとする。

つくづく自分は都会に向いていないなあと思ってしまう。