今日は人生初めての日だったなんて

好奇心がある限り心を文字で表すことは大切です。日記を書きます。

木の名前の分かる人たちとの散歩

今日は友達と一緒に近くの水辺公園と植物園を散歩してきた。

天気予報は雨だったのに雨は一粒も落ちてこず、

誰もいない東屋でお弁当を食べた後、

のんびりと植物観察とお喋りをしながら歩いた。

 

たいていはひとりでここを散歩する場合が多いので、

興味を持った花や木に出あっても、

その場で名を知ることはないけれど、今日は全然違った。

皆それぞれに植物に造詣が深く、木々の名前と特徴を知っているのである。

 

この二つの公園には様々な木々があって、

そのほとんどの木の名前を私は知らない。

花は目を引いても木は難しくて覚えられないのだ。

 

木の花は葉のない冬と花の咲く時、

そして、実が成る頃を見ないとなかなか同定が難しい。

木肌もそれぞれなのでその模様も覚えないといけない。

 

キブシの木などはフジの花のような黄色い花が春一番に咲き、

その形が特徴的で私も知っているが、

その実の様子がまるでブドウのようなのには驚いた。

友人のひとりがこともなげに「あら、キブシの実だわ」だと言うのである。

 

昔から三人寄れば文殊の知恵と言われている。

ひとりでは分からないことも、

各々が知恵を出し合えば答えが分かる時が多い。

 

こういう時、人は支え合って生きているのだなあと実感する。

だから、大忙しになっても時々こうして旧交を保つのも大切だと思う。

 

我が家の美化のために友達がやってくる

普段利用しない玄関の部屋は荷物でいっぱいだけれど、

友達が来るので大掃除をしている。

人を招くたびに大掃除になるのは、ごちゃごちゃと置かれた荷物のせいだ。

 

それらの荷物のせいで1年中壁の隅が見えない。

隅が現れるのはお客が来るときだけだ。

一体どんな荷物があるのかというと、

これが全く我ながら呆れてしまう程、不必要なものばかりである。

 

たとえば、目を通してから捨てようと思っている新聞入れ。

新聞はとうの昔にやめてしまい、情報はラジオやネットニュースばかりなので、

古い新聞を時々もらい受けているのである。

これが、読もうとしても捗らず、一袋のひと月分が幾つも置かれたままだ。

いつか目を通したいので捨てられない。

 

すぐには片づけられなくて置いておいた冬用の絨毯や敷物、

それにストーブなどもある。

それらは大掛かりな荷物室の整理をしないと収まらない。

 

また、スーパーに捨てに行くペットボトルやトレイの入った大きな袋。

何かを送る時に役立つ空き箱や段ボール、

分別した紙ごみ、キャンプ用の椅子やハイキング用のリュックなどなどで、
どれもこれも日常的には使わないものだ。

 

それらが雑然と置かれているので、

間に合わせに二階の部屋やお風呂場に移動する。

そして、床が見えるようになったら掃除機をかけて雑巾で拭き、
夏用の竹マットに敷き替える。

 

また、サッシに付着した埃や緑の苔みたいなものも、

エスを使ってきれいに拭き取っていく。

その作業が終わると二階からお布団を運び、

ベッドカバーで仕上げをする。

 

見渡すと客用寝室らしくすっきりしていて気持ち良いけれど、

ここらあたりで疲労困憊し、もう動きたくなくなる。

気付くと朝から夕方までかかっていてる。

 

それでも、客人の訪問は有難い。

こうして普段やることの出来ない隅々の掃除ができるから。

友達は私の家の美化のために来てくれるのだ。

 

 

コウゾの実を採って来た

昨日水辺公園を散歩していたら、水際に薄い朱色の実を見つけた。

この時期の公園にはあちこちに桑の実が次々と色づき、

完熟して真黒くなった実が折からの風にあおられ地面に落ちていく。

そんな桑の実の様子を誰一人見向きもしないけれど、

私は毎年のようにそれらを拾ってはマルベリージャムを作っている。

 

朱色の実は大きな木から落ちる桑の実と違って、

灌木のように繁った低い木になっていた。

少し実に毛があるけれど何やら食べられそうだ。

そんな気がしたのでビニール袋に集めてみた。

 

後ろから来た二人連れの女性から、

「毎年ここでその実を見るけれど、食べられるのですね」と話しかけられた。

私も分からないので、

とりあえず採ってみて帰ってから調べると応えておいた。

 

実の形態はちょうどキイチゴのようだったけれど、

葉はまるでキイチゴとは違った形をしている。

それでも、明らかに美味しそうだった。

 

帰宅して植物に詳しい友人に写真を送ると、

「コウゾ」といって和紙に使われる木だということだった。

昔、学校で習った「コウゾ、ミツマタ」のあのコウゾである。

彼女が言うには実はあまり食べないけれど毒ではないという。

 

それでは酵母を作ってみよう。

キッチンにはイチゴと桑の実を酵母にしている瓶が並ぶ。

何でも試してみなくては。

さて、どうなることか、楽しみだ。

 

 

 

世の中捨てたものではないと思う時

週末に友人たちが来て一緒に尾瀬辺りに行こうと思うので、

今日は足慣らしのために自宅から水辺公園まで歩くことにした。

いつもそうしようと思いつつも、なぜだか月に一度も実行できていない。

 

公園のメインゲートまで車で移動してそこを起点に歩けば、

湖を一周するのに1時間半ほどで済む。

自宅から歩くとなると余計に1時間はかかってしまう。

 

でも、万歩計はおよそ13000歩ぐらいとなり、

帰宅後にスマフォで確かめる時の充実感は、

車で行くそれと比べると違ってくる。

要するにたくさん歩くと嬉しいということだ。

 

家からあぜ道のような場所を通って最短距離を歩くと、

いつの間にか水田だったところがメガソーラーになっていて驚かされる。

ここを耕していた老人はどうしたのだろう。

 

でも、国道の際の三角形の土地に小さな畑があって、

その場所は狭いためか以前と変わってはいない。

土地の隅には作業小屋があり、入り口付近に自転車が置かれてあった。

 

ちょうど畑の持ち主がいたので声をかけた。

去年、枝豆をたくさん頂いた人である。

その時のお礼を言うと思い出してくれ、少しだけ立ち話をした。

 

ここも先日の霰で野菜の苗が大分やられたらしい。

我が家の菜園も大打撃だったから農業の大変さについて話した。

スーパーで売っている玉ねぎの異常な値上がり、

昨今のインフレなどについても話した。

 

別れ際に彼は「ちょっと待って」と言い、玉ねぎを3本抜いてきて私にくれた。

「今から散歩に行くので畑の際に置いて行きます」と、

私は何度も頭を下げながら、

その玉ねぎを道路際の窪みに置かしてもらった。

 

2時間後、玉ねぎを取って帰ろうと彼の畑の敷地に入った。

すると、真新しいレジ袋に玉ねぎがきちんと入れられて置いてあった。

私は公園で桑の実をたくさん採り、左手が塞がれていたので、

そのレジ袋がとても有難かった。

何かお礼をしたいけれど、

あの人は去年も今回もお礼は困ると強く言っていたっけ。

 

見知らぬ人との1年振りの再会、

それは、とても心が温まる出来事だった。

世の中捨てたものではないではないか、

私はそう呟きながら家路を急いだ。

黒い金魚が赤くなっていく

ここのところ金魚の水槽を覗くと、何となく違和感を覚えていた。

3匹が2匹になったとかそんなことではなくて、

3匹の泳ぐ光景がちょっと今までとは違うのである。

 

じっと観察していたら、その原因が分かった。

体全体黒かった金魚が全体に色が薄くなり、しかも赤みを帯びているのだった。

そのために何となく変な感じがしたのだ。

 

色の変わったクロはほかに何か異常があるかもしれないので、

一尾だけ柄杓で捕まえ、別の水槽に入れてみた。

私はよくそうするので、ひとりぼっちになった金魚の行動を知っている。

 

別にした金魚はしばらくは水槽内を暴れるように泳ぎ回る。

半日ほど経つと環境の変化に慣れてしまうのか、

気持ちよさそうに静寂の中をスイスイと泳ぎ、餌も欲しがる。

 

色の変わったクロは今までと同じで別に何の病的変化はなかった。

ただ鼻の頭の色が黒く残っていてコメディアンのように見える。

正面から見たらユーモアたっぷりで笑ってしまう。

 

ネットで調べてみたら、

金魚は色が薄くなったり変わったりすることがあるらしい。

専門家でもその原因は分からないと書いてあったけれど、

ストレスというものも色変わりに関係するらしい。

 

赤2、黒1の3匹の組み合わせで、赤2は雄と雌でクロは雄である。

雌を得るために赤とクロはよく競っていた。

雄赤は体も大きく、雌赤とお似合いのようにも見える。

 

もしかしたら、雄クロはそのせいでストレスを感じ、

自分の体色を赤に近づけようとしているのだろうか。

まさかそんなことはないだろう。

 

クロの色変わりはもともとのDNAかもしれない。

成魚になって変わるものだったのかもしれず、

金魚という生き物の世界も奥が深いではないか。

 

梅干しを何故作る?

先日、スーパーで近隣産の梅が安く売っていたので、

梅干しを作ることにした。

たった1キロだから、友人が勧めていた方法でやってみよう。

 

それは、厚手の密封袋の中で梅を漬けるもので、

甕や重しなどの道具が要らず、手軽に梅干し作りに取り組める。

売り出しの梅はまだ青かったので、一晩以上水に浸しておいた。

 

少し黄色く色づいてから笊に上げて水切りし、臍を爪楊枝で取り除く。

密閉袋に梅を入れお塩を適量まぶし、袋の上に1キロの重しを二つ乗せた。

これで梅酢が上がるのを待ち、その後、赤紫蘇を買ってきて入れる。

やってみるととても簡単で、手もあまり汚さない。

 

さて、そこで、去年こしらえた梅干しはどうなったのか。

床下の収納スペースの扉を上げると、

ガラス瓶に入ったピンク色の小梅と大梅が、

全く手をつけないまま保存されている。

 

最近は食卓に梅干しが出る機会がとても少なくなった。

おむすびもあまり作らない。

だから、今年の梅干しもきっとこのままで床下で眠るだけだろう。

 

なのに、なぜ、梅を買ってきたのか。

きっとまた安いのが出ていたら買ってくると思う。

自分でも解せない。

 

 

お金って恐ろしい

人が労せず大金を得ることにどれほどの価値があるのだろう。

最近は小学生にも経済の勉強をさせようという動きがある。

株や仮想通貨などのことを良く知って、

積極的に関わって欲しいというものだ。

 

さて、お金といえば、コロナ対策で国が打ち出した持続化給付金という救済措置。

それに対する詐欺がこのところ世間を騒がせている。

その規模は信じられないほどの額で、

億のお金をだまし取ったというから驚く。

 

人が楽をしてお金を得るということは、

それが相続や株の利益などといった正しいものであっても、

私は決して良いことではないと思う。

お金は身体で働いて稼ぐこそその価値がある。

 

コロナの場合、国が商売を制限したため、

それに見合った給付金という方法が取られたのだった。

ああいった制度は誰もが満足するということはなく苦肉の策だったと思う。

 

飲食店が休業するということは、従業員や卸業者などにも大損害となる。

書類を揃えるのもできない人もいた。

役所も混乱していて審査がなかなか通らず困った人も多くいた。

なのに、悪事に長けた人間には簡単にお金が得られたのである。

 

あの制度では自分が該当しないのにお金を請求した人たちもいたらしい。

また休業して儲かったという人たちもいたとの話も聞く。

事件が大きく報道されているため、

今になって慌てて返還している人もいるらしい。

 

降って湧いたようなお金は必ず人を惑わせる。

お金欲しさに犯罪に手を染める人もいる。

またお金がないために自死を選ぶ人達もいる。

お金って本当に恐ろしいとあらためて思う毎日だ。